神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その10 山幸彦、海神の国から帰還する。

( 山幸彦が海神の国から帰還したと言われている宮崎県青島海岸 )

山幸彦が海神の国へ来て3年がたとうとしている。

日本書紀】では山幸彦の様子を次のように綴っている。

神の国は楽しい所ではあるが、やはり望郷の念があり、時に大きなため息をついた。それを聞いた豊玉姫は父に対し、「おそらく故郷を思い出しているのでしょう」と話した。海神は自分の部屋に山幸彦を招き入れ、「天孫がもし故郷に帰りたく思うのであれば、私が送りましょう」と申し上げた。そして先に探し当てていた釣り針を渡して「この釣り針を兄上に渡すときにひそかにこの釣り針に対して ” 『貧針(ましち)』”と仰せられてその後でお渡しなさい、」と申し上げた。また潮満玉(しおみつ玉)と潮涸玉(しおふる玉)とを差し上げて、「潮満玉を水に浸せば潮がたちまち満ちてきて、それで兄上を溺れさせなさい。もし兄上が謝ったなら潮涸玉を水に浸すと潮は自然と引くでしょう。そしてそこで兄上を助けてあげなさい。そうすれば兄上も降伏するでしょう。」と申し上げた。

又山幸彦が海神の国を去るに際して豊玉姫がやってきて

「私はもう身ごもっています。出産も間近です。私は風波が激しい日を選んで海辺に出てまいりましょう。どうかわたしのために産屋を作ってお待ちください。」

と申し上げた。

と記されている。

この山幸彦の帰還の舞台が宮崎市の青島海岸である。

 

( 宮崎市の青島、島の右遠くに青島神社の鳥居が見える。)

日南海岸国定公園に位置するこの青島は、周囲1,5Km程。この小さな島には樹齢300年以上のビロウやハマカズラなど特別天然記念物に指定されている亜熱帯性植物が生い茂っている。

また青島は800万年~1000万年前の地層が侵食されてできた波状岩で囲まれており、これが洗濯板のように見えるところから、「鬼の洗濯板」(天然記念物)と呼ばれ親しまれている。(青島ビーチセンターパンフレットより)

この青島であるが、昔から霊地として一般の入島は許されず、藩の島奉行と神職だけが入島し一般の入島は旧暦3月16日の島開祭から島止祭(同月末日)までのみ許されていた。

その後元文2年(1737年)当時の宮司長友肥後が一般の参拝者にも常に入島を許されるように藩主に願い出て、許可され以後入島が自由になった。

そしてこの青島に鎮座しているのが山幸彦(ヒコホホデミノミコト)、豊玉姫をお祀りする青島神社である。

 

( 青島神社鳥居 )

 

( 参道 )

 

( 手水舎 )

 

( 青島神社社殿 )

 

( 拝殿内部 )

 

( 元宮へ行く参道に設けられた絵馬かけ )

 

( 元宮 )

 

青島神社の元宮で往古は小さな祠であったようだ。この地から弥生時代の土器や獣の骨などが出土している。

( 元宮の社の奥にある「天の平瓮投げ」(ひらかなげ) )

径7~8㎝の素焼きの小皿を投げ入れることで心願成就とし、小皿が割れると開運厄払になると言われている。平瓮(ひらか)とは土器の小皿の事である。

鬱蒼とした南国の樹木に覆われたこの島は全てが青島神社の境内地であり、一角には平成12年にオープンした「日向神話館」がある。館内には30体の蝋人形と12の場面で神話の物語を再現している。

 

さて、山幸彦は海神の国から帰還したのちこの青島に宮居を設け住んだとされ、この神社はその宮居の跡と言われている。

山幸彦が帰還した時には、にわかの帰還であったため村の人達は衣服を着る暇がなく真っ裸で海岸にお迎えに出た。

この故事により昔は夜半から起きだした若い男女が夜を徹して真っ裸で神社に参拝しており、沿道から神社境内までこれらの男女と参拝者で大いに混雑したと言われている。

現在は「裸参り」として毎年成人の日に寒風をついて氏子青年や信者が社前の海水に浴して静かに祈願する形に変わっている。

 

帰還後の兄海幸彦との関係であるが、『貧鉤(ましち)』と呪いをかけられた釣り針を渡された海幸彦は次第に貧しくなり心も荒んできて、ついには山幸彦に戦いを挑んできた。

山幸彦は海神の教えに従い『潮満玉』『潮涸玉』で海幸彦を苦しめた。海幸彦は自らの非を認め「今後、私はあなたの俳優*1(わざおぎ)の民となりましょう。どうかお助け下さい」と申しあげた。この海幸彦(ホノスソリノミコト)は吾田君小橋(アタノキミコハシ・隼人)の祖先である。

この海幸彦(ホノスソリノミコト)を主祭神としてお祀りしているのが、日南市北郷に鎮座する潮嶽神社である。

(日南市北郷県道28号、ひむか神話街道沿いに鎮座する潮嶽神社の鳥居)

 

 

(潮嶽神社拝殿)

 

(本殿、神殿)

 

(拝殿内部)

 

(如何にも時を感じさせる狛犬である)

潮嶽神社の由緒によると、山幸彦(ヒコホホデミノミコト)との戦いに敗れた兄の海幸彦(ホノスソリノミコト)が巌船に乗り流れ着いたのが当地だという伝説があり、この地に宮居を構えこの土地を治めた跡が潮嶽神社と言われている。

多くの神社の中で海幸彦(ホノスソリノミコト)を主祭神としてお祀りしているのはこの潮嶽神社のみである。

またこの土地には古くからの風習として縫い針の貸し借りを禁じている。

これは海幸彦と山幸彦が釣り針がもとで争ったことに起因していると言われている。

また子供が生まれ初宮参りの時にこの神社の宮司は赤ちゃんの額に紅で「犬」と書く。兄弟の争いに敗れた海幸彦は、弟山幸彦の許しを請うために

赤土を掌に塗りそれを顔に塗って弟に「私はこのように体を汚した。永久にあなたの俳優となりましょう」と申し上げた。そして足を挙げて踏み歩き、溺れ苦しむさまを真似した。

と【日本書紀】には記す。

1300年前に書かれた【日本書紀】の記述が今に生きていることはなんとも感慨深いものがある。

それにしてもこの兄弟の争いは、弟の山幸彦が兄の釣針を失くしたことが原因である。

兄がこの様な立場になるのはなんとも気の毒な話ではある。

話は変わるが、『潮満玉』『潮涸玉』のその後の話である。

もちろん【日本書紀】にはこの事について何も綴られていないが、先日宮崎県神社誌を読んでいると、興味深い神社を発見した。

それがこの鹿野田神社である。

( 鹿野田神社社殿 )

 

宮崎県西都市に鎮座するこの神社の創建は詳しくは解からない。

享保11年(1726年)社殿を再興した時の当時の棟札から弘安年間(1278~88年)以前より勧請された古社であることが推考されている。

御祭神は兄弟の戦いに勝ったヒコホホデミノミコトである。

【日向地誌】によれば

境内に《 潮井 》があり海岸より15km程離れているにも関わらず海潮の干満に合わせて水面が上下し、大潮の時は井戸より溢れ出て地上に氾濫する。その味は海潮と少しも異ならず、奇なりといへり

と書かれている。

 

( 鹿野田神社二の鳥居。左の建屋は手前に手水舎、奥が潮井。 

 

( 左手水舎、右潮井の建屋 )

潮井建屋の内部はこのようになっている。

( 井戸はきれいに管理されていて、ひしゃくも準備されている。)

 

(御神水への志が書かれている)

 

( 井戸の横の小さな祠は豊玉姫を祀る潮神社 )

 

( 満潮の時には横の道路迄潮が溢れ出す )

当然の事であるが筆者も飲ませていただいた。

海の潮より少し塩味が薄いような感じではあるが、まろやかで美味しいと感じる味である。

通りかかったお年寄りに話を伺った。

「この集落はもとは10軒ほどあったが、若い人が出て行って今は5軒になっている。宮司さんは5年程前亡くなられて、今は遠くの神社の宮司さんがお祀りしている。日頃の掃除など管理は私ら年寄りが行っている。私らの小さいころはこの神社の境内が遊び場所だった。この潮井の冷水は飲んだり料理に使ったり、夏場あせもが出来た時など汲んで帰り風呂に沸かせて入るとすぐに治る。」との話である。

海からの距離を考えればなんとも不思議ではあるが、ロマンあふれる話ではある。

 

 

次は ( その11 山幸彦を祀る鹿児島神宮 )

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

*1:わざおぎとは滑稽な所作をして神や人を楽しませる人の事。実際には祭祀に於ける犬の吠え声や隼人舞等歌舞の人達と考えられる。