話は大分それたが、その後の山幸彦の話である。
( 石體神社社殿 )
山幸彦は兄弟の争いが鎮まり世の中が穏やかになった頃、現霧島市隼人町の地に宮を構え、その地の経営にあたった。その宮の跡が鹿児島神宮の北東300mの所に鎮座する石體(せきたい)神社である。
この石體神社の地が高千穂宮の正殿があった処で、鹿児島神宮の元宮である。
鹿児島神宮は和銅元年(708年)現在の地のに遷座し、その後に社殿を作ったのが石體神社である。
そして石體神社の正面には大きな石碑が建っており、碑文に「神代聖蹟高千穂宮跡」と刻まれている。
( 高千穂宮跡を証する石碑 )
豊玉姫のお産に付いては後述するが、石體神社の由緒書きによると
当時のお産は屋外に産屋を作りその中でお産をしたが、豊玉姫の陣痛が早まり、産屋の屋根の鵜の羽や壁のカヤをふきあげる前に出産した。非常に安産であったためこの故事から石體神社は安産の神様として地域の人達に長く崇敬されている。
そしてお生まれになった御子神の名をウガヤフキアエズノミコト(鵜鴎葺不合尊)(神武天皇の父)と申し上げる。
この石體神社の南西すぐ近くに鎮座しているのが鹿児島神宮である。
( 鹿児島神宮社殿 )
当神宮の由緒は前記の通りであるが、歴史的に信頼できる資料によると、醍醐天皇
(897~931)の時に編纂された「延喜式神名帳」に「大隅国桑原郡鹿児島神社」とあり、南九州では最も格式の高い唯一の式内大社(国幣大社)である。
平安時代には八幡神が合祀されたとされ、それ以降正八幡宮、大隅正八幡宮、国分八幡宮などど称されている。
建久年間(1190~1199)には社領2500余町歩の広さがあり、江戸末期まで千石を領有していた。
( 大鳥居 )
( 参道入口 )
( 参道 )
( 奉納木馬 )
( 神馬舎 )
( 社務所 )
( 本殿正面の勅使殿 )
( 本殿の説明書き )
( 拝殿、神殿 )
( 拝殿内部 )
正面向拝の柱には巻き付くように龍の彫刻が施されている。
( 拝殿の格子天井 )
拝殿の壁や天井には花や野菜の絵が極彩色にて描かれており、これは薩摩藩のお抱え絵師木村探元の筆と伝えられている。
鹿児島神宮の祭礼の中で全国的に有名なものは 「 鈴かけウマ踊り 」と言われる初午祭である。
御神馬の鈴かけ馬を先頭に多くの踊り手が太鼓や三味線の音に合わせて踊りを奉納する特殊神事があるが、
ここでは5月に斎行されるお田植祭の風景を紹介しておく。
( 鹿児島神宮神田全景 )
( 神事祭壇風景 )
テント中央は宮内の田の神像。
( 教育委員会による田の神様の説明書き )
( 宮内の子供たちによる早男早乙女の入場 )
( 田の神様の前での神事 )
( 田の神舞の奉納 )
( 田の神による鍬入れの儀 )
( お田植風景 )
( お祭りの後 )
“ 今年も豊作になりますように ” 祈りをこめてのお田植祭も無事終了。
次は ( その12 豊玉姫の出産と夫婦の別れ )