神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その5、 ニニギノミコトの日向巡行

大隅半島道の駅錦江にしきの里から対岸薩摩半島を望む。遠く開聞岳に沈む夕日)

高千穂の峰に降り立ったニニギノミコトを「古事記」では『 痩せて不毛の国から丘続きに良い国を求めて歩かれ吾田の長屋の笠狭の岬にお着きになった。そしてニニギノミコトは「この地は韓国(からくに)に相対し、笠沙の岬をまっすぐ通ってきて、朝日のじかに射す国、夕日の照らす国である。それゆえ、ここは大変良い地だ」と仰せられ、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に千木を高くそびえさせてお住まいになった。』 と記されている。

 

この文章だけでは高千穂の峰から真っすぐに笠狭に移動したように読み取れるが、実はそうでもないらしい。

鹿児島県郷土史には「 ニニギノミコト一行は高千穂を出発し各地を巡幸したのであるが、その道筋は確かにはわからない。歴史家の諸説を総合してみると、都城より穂北、高鍋、都農、細嶋、延岡に至り、更に南に転じて細嶋、都農、赤江を経て志布志に至り、大崎地方から肝属平野に出て古江の浦から錦江湾を渡って薩摩半島に渡られたものと思われる 」と書かれている。

但し巡幸経路の各地を調べてもそれらしい伝承は残っていない。

いろいろ調べている中で鹿児島県鹿屋市の古江に高千穂という名の神社が目に留まった。

この鹿屋市には太平洋戦争末期に特別攻撃隊が飛び立った鹿屋航空基地があり、また神話の関係では、後述するが神武天皇の御両親が眠る《 吾平山上陵(あいらやまのうえのみささぎ) 》がある。

この古江という地名は鹿児島県郷土史の文章にも合致し、高千穂という名もそれらしいので、早速訪ねることにした。

ところがカーナビで走っているがなかなか目的地に着かない。この地区は浜のほうへ集落が密集し山手はあまり人家がない。やっと一軒の家を見つけ庭に出ていた御婦人に道を尋ねた。教えられた道を進み角を左に曲がった。ところが曲がってすぐと聞いていたが、行けども行けども神社がない。

しかたなく曲がり角まで戻って、ひょいとさっきの家のほうを見ると例の御婦人が立っており、50m先から手旗信号のように身体全身を使って、もう一本先を曲がるんだと懸命に教えてくれている。

意味はこちらでもすぐにわかったので、こっちも大きく三度ほど頭を下げ両手でOKを作りお礼を言った。

こちらが違う道を曲がったのでしばらく様子を見ていてくれたんだと感謝と共に、ほっこりし、ハンドルを握る。

曲がってすぐにこんもりとした小さな森が目に付いた。そこが高千穂神社の鎮守の森であった。

( 高千穂神社の鳥居 )

 

( 高千穂神社本殿 )

古江の浜より4,5百メートル離れた丘の上に鎮座する高千穂神社である。小さな社殿であるがどっしりとして歴史を感じるたたずまいである。

御祭神はニニギノミコトであり 教育委員会の由緒説明版には ” 創建、由緒とも伝わっていない。その昔天照大神の孫で高千穂に降臨したニニギノミコトが高千穂の宮から薩摩半島を巡幸した折当地に暫く滞在した跡であるという話が伝わっている ” と書かれている。

毎年7月31日には浜下りのお祭りがある。

ニニギノミコトが古江の浜から笠狭の宮へ船出された故事をしのび、神社から浜に設けた御座所へ御神幸される神事で、前夜には夏越祭が行われる。

( 浜近くに設けられた御座所 )

 

( 古江浜 現在は漁港になっている )

 

古江の浜を出帆したニニギノミコト一行は錦江湾を南下し薩摩半島南端をかすめ、東シナ海に出、笠狭の岬に上陸している。

( 前方遠くに野間半島から突き出た野間岬。少し霞んでいたが素晴らしい景観である。 )

笠沙は鹿児島県南さつま市の西、日本3大砂丘の一つと言われ、47kmにも及ぶ吹上浜の南端に位置している。

上陸地点である笠沙町の郷土誌によると ” 吾田は現在の南さつま市阿多であり当時は薩摩半島全体をさし、その中に笠狭があるというイメージではないか。

また長屋は長屋山に名を残し、笠狭の岬は現在の野間岬、笠狭は南さつま市加世田笠沙である ”と伝えている。

そしてこの野間半島南側にニニギノミコト一行の上陸地と言われる場所がある。

国道226号線・野間半島ドライブコースを黒瀬漁港へ下った波静かな小さな港である。漁船が5、6艘係留されている。

( 一行が上陸したと伝わる野間半島南側の黒瀬海岸 ) 

 

( 上陸地点の石碑、古ぼけて判読が困難 )

石碑には ” 瓊瓊杵尊ニニギノミコト)上陸の地 ”とある。

この野間半島には野間岳といって600m足らずの山があり、8合目付近に野間神社が鎮座している。主祭神ニニギノミコトということで寄っていくことにした。

所が国道226号線から山に入る道がわからない。地図上では片浦漁港から入るようになっていたが、何の標識もない。片浦の派出所を訪ねたが不在である。仕方なくそのまま岬を回り半島の南に出ると小さな標識に野間岳入口とあり細い道が森の奥に通っている。

やれやれと思い乗り込んだのが大間違い、道幅はやっと車1台通れるほどで、あまり車が通った形跡がない。枯れ葉がかなり積もっており、それもしばらく雨が降らないのに湿って光っている。

道路の右は高さ5mほどの崖が続き、左側は、はるか下のほうから小川のせせらぎが聞こえる。スリップするとゲームオーバーである。

右の崖からは時々パラパラと小石が落ちてくる。ソロリそろりと進んだ15分間であったが、1日分の体力を消耗した。

やっとの思いで到着した。その野間神社がこれである。

( 駐車場から野間神社の鳥居 )

( 野間神社拝殿 )

( 神殿 )

以前は頂上に鎮座されていたが度重なる台風被害のため、現在はこの地に鉄筋コンクリート作りで再建されている。

( 教育委員会の由緒書き )

祭神はニニギノミコトの他、妃のコノハナサクヤヒメ、及び3人の子供たちである。

 

話は戻るが、黒瀬海岸に上陸したニニギノミコトは舞敷野(もしきの)に笠狭の宮をおかれた。

(笠沙路の碑。後方の山は野間岳)

 

(笠狭の宮跡。現在は公園として整備されている。)

 

 

( 地区の公民館が設置している説明書き )

説明書きには

『 神話の里・舞敷野(もしくの)

この舞敷野には日本の最初の天皇の祖先ニニギノミコトと妃のコノハナサクヤヒメの宮殿・笠沙の宮(かささのみや)があったと言い伝えられています。

お宮の向かいにある山・竹屋ケ尾(たけやがお)では三人の皇子が生まれ、この三皇子のうち長男の火照命(ホテリノミコト)=海幸彦は阿多隼人一族の祖となり、三男の火遠理命(ホオリノミコト)=山幸彦は日向へ遠征し、その後孫の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は日本の最初の天皇神武天皇(じんむてんのう)になったと言い伝えられています。』と書かれている。

 

(宮跡の向かいにある山、三皇子の生誕の地竹屋ケ尾)

 

( 公園内の笠狭の宮碑 )

(宮跡の前に建てられた《日本発祥の地》と書かれた石碑)

この笠狭の宮に落ち着かれた後、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメと結婚することになる。

次は ( その6 ニニギノミコトの結婚と3皇子の誕生 )