神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その24 吉備の国、高島宮

(波止の先、児島湾に浮かぶ高島)

岡山県で有名なものと言えば白桃、シャインマスカット、祭り寿司にデミカツ丼と美味しいものがたくさんありますが、筆者の年代でまず思い出すのは桃太郎の吉備団子。

その桃太郎よりはるか昔に吉備を通って難波津に向かわれたのが神武天皇である。

神武天皇東遷の足跡として、岡山県内に伝わっている高島宮は3か所ほどあるが、その一つが岡山市南区宮浦の沖、児島湾に浮かぶ高島の《高島神社》である。

高島は周囲1,2kmの小さな島である。以前は人が住んでおり海水浴などで賑わったようであるが、現在は無人島である。島に渡ることはできずお参りは対岸の宮浦に遥拝所がある。

 

(宮浦の遥拝所)

ここから向こうの社殿に向かって手を合わせる。

 

(高島神社)

望遠レンズ使用。灯籠、狛犬、鳥居それに本殿などなんとか確認できる。

この高島宮で神武天皇一行は8年の歳月(【日本書紀】には3年)をかけ武器・食料の確保や軍船の修理・造営を行い難波に向かったと【古事記】に記す。

 

また岡山県笠岡市にも高島がある。

三洋汽船の連絡船で昼前に笠岡(住吉)の桟橋を離れた。

(笠岡桟橋)

短い時間ではあるが、久々の瀬戸内航海である。

この日も素晴らしい晴天である。海の青、島々の緑が美しい。

途中神島外浦を経由しおよそ25分で高島港に着く。

島に上がりまず目にしたのは、この大きな神武天皇像である。

神武天皇像)

説明文には「神武天皇東征の際、瀬戸内海を航海し途中高島に逗留、軍備を整えられた」と言う様なことが書かれている。

 

(高島神社)

 

笠岡市教育委員会の説明文)

 

(神卜山の山頂の「高島行宮遺阯碑」)

 

2時間ほどで回り、桟橋に戻るとちょうど船が着た所である。

(高島桟橋)

久しぶりの瀬戸内船旅を満足したところで、この項は終わりである。

次は その25 生駒山ナガスネヒコとの闘い

 

 

 




 

その23 周防から安芸へ

多家神社本殿》

日本書紀】では《埃宮・えのみや》、【古事記】では《多礽理宮》と書かれている

多家神社である。

多家神社》が鎮座する府中町は周囲を広島市に囲まれた安芸郡の飛び地となっている。JR広島駅から東に約4Km、市街地の中に小さな丘があり、その上に鎮座している。

 

 

(参道入口の標柱と鳥居)

 

(鳥居前の狛犬

 

(台座に「前田屋貞八」の銘)

 

 

神武天皇東征御留跡霊地の石碑)

 

多家神社由緒書き)

 

 

(参道)

 

(手水舎)

 

(宝蔵・ほうぞう)

 

(宝藏)

この建築物は当神社の神輿などを保管しており、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築したものである。奈良の正倉院と同じ校倉造りであり、神社の宝物倉としては筆者も初めて拝見する珍しいものである。

 

多家神社由緒書き)

 

 

古事記日本書紀ゆかりの地)

 

(本殿前の狛犬

 

(本殿前の狛犬

 

(拝殿)

 

(神殿)

 

(本殿を取り巻く瑞垣と神殿)

 

社務所・お札、お守り授与所)

 

拝殿で手を合わせお参りすれば、おのずから心が清められ、「本当に参ってよかった」と実感する神社でした。

この「多家神」をめぐっては古くから総社と松崎八幡の氏子同士の争いが絶えなかった。その為明治7年(1874年)広島城の三の丸にあった稲荷社を浅野氏から譲り受け、総社と松崎八幡を合祀し多家神社として現在地に造営されております。

その後大正4年(1915年)火災により宝蔵を残して社殿を焼失し、大正11年

(1922年)に再建されております。(府中町公式サイトより)

 

広島県には神武天皇に関する言い伝えがある神社がもう一社ある。

それが福山市田尻に鎮座する《武の宮八幡宮・田尻八幡神社》である。

創建は不詳であるが、神武天皇が滞在された吉備高島宮跡の候補地の一つとして考えられている。

 

 

(武の宮八幡宮本殿)

住宅地の中、こんもりとした鎮守の森をナビが示している。ところが入口は解からない。

庭に出ていた男性に訪ねてやっと登り口を発見、

 

 

(階段下右の吉備高島宮跡の石碑)

 

(階段下左の武の宮八幡宮の石柱)

 

(長い階段)

 

(神門)

 

(拝殿)

 

(神殿)

広島県下の神武天皇ゆかりの地としてはこの2か所であるが

岡山市中区に一か所、瀬戸内海の小島に2か所候補地がある。
次回はそこを目指すことにする。

 

この次は  その24 吉備の国、高島宮

 



























その22 瀬戸内・東への進軍

令和7年11月  瀬戸内海を陸路東に向かって北九州を出発した。

このブログの取材を始めたのが、令和4年11月である。九州をくまなく走り回って、3年が経過した。そしていよいよ瀬戸内の東遷取材に入る。

朝8時に自宅を出発、春のような温かい朝である。

筆者の幼少の頃は11月に入ると、まさに冬を感じる寒さでした。

筆者が住んでいる北九州には現日本製鉄の八幡製鉄所がある。その八幡製鉄所の起業祭が行われるのが11月中旬であったが、毎年必ずと言っていいほど霙か雪であった。

家族で防寒着を着て野外の歌謡ショーやお化け屋敷を楽しんだものである。

今日のように温かいことは大変有難いことだが、将来にわたる気温の上昇は気になるところではある。

 

9時過ぎに関門海峡に架かる関門橋を通過。久しぶりの本土ドライブである。

山口県周南市に《神上神社(こうのうえじんじゃ)》がある。今日最初の訪問神社、関門橋から距離約100km,2時間半の行程である。

 

さて、瀬戸内海の進軍に付いて、【日本書紀】ではこのように記されている。

『11月に丙戌朔(へいしゅつついたち)の甲午(こうご)(9日)に天皇は筑紫の国の岡水門に御到着になった。

12月の丙辰朔の壬午(しんご)(27日)に安芸国に至り埃宮(えのみや)に滞在された。』

また【古事記】には宇佐を出発したのち

『筑紫の岡田の宮に1年おいでになった。またその国から上って安芸の国の多礽理宮(たけりのみや)に7年おいでになった。』

と記されている。(両神社とも現在の広島県府中町多家神社である。)

 

これによると山口県下には全く寄っていないことなる。

所がいろいろ調べているうちに、神武天皇がお寄りになったと言われる場所が複数個所ある。以下にご紹介しておく。

 

まず先に記した《神上神社》である。

国道2号線周南市に入り暫く進むと徳地方面に抜ける国道489号線の交差点がある。

左折して国道489号線を少し走ると、歩行者用信号がありここを右折すると道は車一台幅の無舗装の道路となり、下ったところに《神上神社の御旅所》がある。

 

(神上神社御旅所・神輿2台分の台座が設けられている)

御旅所と言うのは、神社の祭礼の時に神様が神輿に乗って地域を巡幸する途中に、一時休憩したり一泊したりする。

そして神輿の前で氏子の皆さんによる踊りの奉納などがある場所である。

 

神社はそこから上り坂になり50m程先に一の鳥居がある。

(神上神社一の鳥居)

階段や鳥居に時の経過を感じさせる。深い森に入っていくような神秘さを感じる参道である。

 

(二の鳥居)

 

(三の鳥居と神門)

 

古びた神門に相応しい対の狛犬である。

 

(神楽殿

 

右の狛犬文化財説明文

 

周南市教育委員会文化財説明文)

 

(左の狛犬

 

(神上神社拝殿)

 

(由緒書き)

 

(神上神社由緒書き全文)

当時は《神上神武天皇宮》と称したと伝えられているが、明治3年(1870年)神上神社と改称されている。

 

(手水舎)

 

(神社石柱)

 

(神殿)

 

(本殿横の起源2600年記念石柱)

由緒書きにあるように

神武天皇一行は周防灘で暴風雨に遭い一時竹島に避難したが、天皇の船酔いがひどかったため、本土に渡り仮宮をたたて半年ばかり滞在した。

あるとき天皇は今後の東行の道筋をご案じになり近くの山に登られた。その時4匹の熊が現れ天皇の前にひれ伏したので、この山を「四熊ケ岳」と名つけた。

とある。

現在この山の頂上に《四熊嶽神社》が鎮座している。

神上神社から直線ではわずかな距離だが、車道が通っていない。

一旦2号線に出て、県道を北上する。

県道を外れ山道をくねくね走ること10分程で、ナビの受信が途絶えた。

ちょうど道が二股に分かれた所で、確率5割だと左の道に入った。

少し登ったところで幸いにも民家があり、そこの奥様らしい人が外に出ていたので、神社の道筋を訪ねた。

「下の三差路を右に登って100mも登れが神社がありますよ。」との事。

見事に外れ、引き返そうと車に乗ろうとしたとき、奥様が大きな声で

「最近この辺で熊が出ますから、気を付けてくださいねー。もう5・6回出てますよー」

筆者「え、え、え~っ」 びっくりしたり、それで四熊かと納得したり。

実は今度の取材旅行で一番気になったのが熊であった。その為事前に各地の観光協会に連絡し熊情報を確認していたのだが。😢

 

(四熊嶽神社の鳥居)

駐車場からこの鳥居まで約10m。時間をかけて周囲を観察し音をたてないように此処までダッシュしてパチリ。

 

階段上がってパチリ。

 

鳥居を潜ってパチリ。

これで限界。車に帰ってグッタリ。といった状況でした。

御祭神は神武天皇と言うことであるが、詳しい由緒は解からない。本殿左に白い立札があるが、おそらくこれが由緒書きではないかと思われる。

そこまで行くのも遠慮させていただき、早々に下山した。

 

山口県内の神社の内、あと一社気になったのが周南市呼坂の橿原神社である。

もちろん橿原神宮と同じ名称であるからである。

一旦2号線に出,  東行する事50分程の所、原の交差点を右折し暫く進み、旧山陽道に右折して入る。

江戸時代大名や幕府の高官が休憩や宿泊した呼坂本陣跡の手前に橿原神社がある。

(呼坂本陣跡)

 

(呼坂本陣の説明)

 

(橿原神社一の鳥居)

 

 

(一の鳥居からの階段)

 

(左は社務所、上に拝殿)

 

 

(拝殿)

 

(右神殿)

 

この神社には由緒書きの表示がない。主祭神神武天皇だと言うことは間違えのない事だが、残念ながらどの様な経緯なのか不明である。

余談であるがこの地は以前熊毛郡熊毛町といわれていた、その為現在でも

熊毛中学校、熊毛郵便局などの名前が残っている。(どうも熊にこだわっている。)

また隣りの光市島田にも橿原神社が鎮座されている。

では山口県はこれで終わりにいたします。

次は  その23  周防から安芸へ

 

 











 

 

 




 

 

 

 



















その21 関門海峡

関門海峡

関門海峡は東の部碕(北九州市門司区)から西の六連島(下関市)までの28Kmを言い、部碕、六連島共に灯台が設置されている。

その海峡の中で壇ノ浦(下関)と和布刈(門司区)の間を「早鞆の瀬戸」と言い、

赤坂(小倉北区)と彦島下関市)の間を「大瀬戸」と言う。

「早鞆の瀬戸」の幅は650m、最深部は水深47m、潮流は10ノットに達する事もある。

この海峡は日本海と瀬戸内海を結ぶ海上交通の要衝であり、外国との交流,交易に重要な役割を果たしている。

また国内的にも時代の節目に、源平の戦いや幕末の争乱などの重要な舞台となっている。

 

西暦1184年(寿永3年)「一の谷の合戦」(兵庫県福原)に於いて壊滅的な敗北を記した平家は海上に逃れ、屋島の戦いにも敗れ長門の国彦島下関市)まで撤退しここを最後の拠点として源氏との決戦に臨むこことなる。

一方源氏方は源範頼が九州へ迂回し、芦屋浦の戦いで平家方原田種直を破り、平家の退路を断つことに成功する。

1185年3月24日東から壇ノ浦に攻め込む源氏軍に対し、彦島を出た平家軍が迎え撃つ。

当初東流れの潮に乗った平家軍が有利に戦いを進め、一時は千寿島万寿島(下関市長府沖)まで退いた源氏軍であったが、午後になり潮流が反転、攻守逆転し源氏の勝利となった。

女官たちが次々に入水する中、満6歳になる安徳天皇はその祖母二位の尼に抱かれ、三種の神器とともに波間に消えていった。

安徳天皇の母徳子・建礼門院平清盛の娘)も入水したが、源氏に救出され、この後出家して京都の寂光院で亡くなった平家の人達の御霊を弔いながら一生を終わることになる。

 

こちらが関門海峡に面して81代安徳天皇を祀る赤間神宮である。

(水天門)

 

(拝殿)

(拝殿内部)

 

(神符授与所)

 

安徳天皇御陵)

 

 

 

耳なし芳一堂)

小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の小説「怪談」で有名です。

 

耳なし芳一についての説明)

(平家一門の墓)

二位の尼及び13名の平家武将の墓。

高浜虚子の句)

 

(境内案内図)



西暦1600年の関ヶ原の戦いから12年後、諸国を武者修行中の宮本武蔵は、小倉藩細川家家老の長岡佐渡を通じて、当藩剣術指南役の佐々木小次郎に対し真剣試合を申し込んだ。

日は4月13日。場所は関門海峡大瀬戸に浮かぶ船島(現在の巌流島)。

戦いは武蔵が櫂を削った木刀で小次郎の頭を打ち砕き勝利した。

その後細川家は熊本に移封。細川忠興の招きにより武蔵も熊本に転居。当地で没することになる。

武蔵の養子伊織は小倉に残り、小笠原家に仕官、家老職となり幕末まで子孫が家老を務めた。

(巌流島遠景)

巌流島は手前の平らな島である。巌流島の向こうには小さな瀬戸があり、その瀬戸を挟んで造船所などが立ち並でいるのは彦島である。

(巌流島案内図)

 

(巌流島の決闘モニュメント)

右が武蔵、左が小次郎である。遠くに関門橋が見える。

 

坂本龍馬の尽力で薩長同盟が成立したのが1866年。翌年、龍馬と妻お龍は下関に居を構えることになるが、その時に巌流島に渡ったという話が伝わっている。

 

1863年長州藩孝明天皇の命により関門海峡を渡る外国船に対し攘夷を決行。アメリカ、フランス、オランダの船舶に対し砲撃を加えた。馬関戦争の始まりである。

それに対しイギリスを加えた四国連合艦隊は1,864年下関砲台を攻撃し占拠、長州部隊はあっけなく敗退した。

外国戦力の強大さ、攘夷の難しさを痛感した長州藩は、これを機に開国へと梶を切ることになる。

 

関門海峡に向けズラリと並んだ大砲のレプリカ。

関門海峡下関側には「みもすそ川公園」がある。

その園内には上記大砲や義経、知盛の像がある。

 

(みもすそ川公園内・左源義経、右平知盛像)

 

(みもすそ川)

 

「 今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも 都ありとは 」

二位の尼の辞世の句と言われている。

 

この関門海峡には人道トンネルがある。二重構造になっており、上が車、下が人道であり、長さは780m、歩いて約15分程のトンネルである。

(人道トンネル用のエレベーター棟)

 

(人道トンネル内部)

 

この関門海峡取材中に撮影した少し肝が冷える出来事です。

遠くにかなり大きな船が近づいてきた。

「え~っ 大丈夫かね」周りの人から声が出る。喫水線が見えている。

「おオ~っ」と誰かが声を出す。

やれやれ無事に通過。日本郵船の自動車運搬船でした。





(海峡全景)

左下には観光地として多くの人が集まる「門司港レトロ」地区があり、大正時代にタイムスリップし当時の雰囲気に浸ることができる。

 

門司港駅

門司港レトロ」地区で代表的な建物、大正3年に建築されたルネッサンス様式の駅舎。

1988年に国指定重要文化財に指定された。現役の駅舎で国指定重要文化財に指定されているのはここ門司港駅と東京駅のみである。

 

さてさて本題から大幅に外れてしまった。はるばると鹿児島から宮崎、大分と巡ってきて、やっとの事北九州である。

つい力が入りましたが、その理由は、筆者の住まいが北九州市だからです。(笑)

 

それでは神武天皇一行の話に戻ります。

佐賀関の速吸の瀬戸を無事に通過し、北上してきた船団が、そのまま瀬戸内海を東に向かわず、なぜ操船の難しい早鞆の瀬戸に入ってきたのか、その理由を日本書紀古事記には何も触れられていない。

宇佐を出発した後の【日本書紀】の記述は

11月9日天皇筑紫国の岡水門に御到着になった。 

これだけでそれ以外の記述は何もない。

 

この岡水門は現在の福岡県遠賀郡蘆屋町を差し、ここに神武天皇社が鎮座している。

(神武天皇社鳥居)

 

 

神武天皇聖蹟顕彰碑)

 

(参道)

 

(社殿)

御祭神  神武天皇  仲哀天皇  神功皇后

 

 

狛犬

 

狛犬

 

(神殿)

神殿正面の立札には

「平成12年12月8日(皇紀2660年)遷座

    神武天皇の御分霊を奉斎す。

御神殿の材料は伊勢神宮よりの撤下材を拝受使用。

昭和20年6月米軍の焼夷弾により社殿は焼失し

終戦後宗教法人となり

御神体は芦屋の産土神岡湊神社に奉斎し

今なお当社にて祭祀は続けられています

         岡湊神社社務所

 

と書かれている。

 

その合祀されている岡湊神社は神武天皇社から直線距離で1Km程の所、遠賀川の河口に鎮座している。

 

遠賀川は福岡県嘉麻市馬見山に発し途中田川市飯塚市、直方氏、北九州市などを流れ響灘に至る61Kmの一級河川である。

また五木寛之氏の作品「青春の門」の舞台としても有名である。

岡湊神社はこの河口右岸に鎮座している。

 

(岡湊神社一の鳥居)

 

 

(二の鳥居)

この鳥居上部の扁額は北白川内親王の筆によるものである。

 

(手水舎)

 

(拝殿)

御祭神は 大倉主命 菟夫羅媛命 

 相殿として  天照皇大御神 神武天皇 素盞雄命

 

 

 

社務所

 

また【古事記】には【日本書紀】と異なり、宇佐の後を

筑紫の岡田宮に1年坐す。

と書かれている。

その岡田宮は 北九州市八幡西区岡田町に鎮座している。

(鳥居)

 

(神門)

 

(子宝恵方犬)

ご自身の干支をなでた後に子宝恵方犬をなでてくださいと書かれている。

 

三条実美の歌碑)

三条実美1863年8月18日政変により他の公卿6名と京都を離れ長州藩に身を寄せた。1868年には京都に戻り新政府に復帰することになるが、長州滞在中の1865年1月17日

土方久元と共に太宰府に行く途次岡田宮に参拝し、和歌を一首奉納した。

 

  「  玉ちはふ  神してらせば  世の中の

           人のまごころ  かくれやはする   」

   (訳)  世の中には善い人や立派な志を抱いた人は大勢いるが、

        その見分けはつけ難い。

        しかし神は真実を知り誠実なものは、いつか神に通じ

        そうして世の中に現れる時がくる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

 

(神殿)

 

社務所

 

(手水舎)

 

(拝殿)

 

八咫烏

 

 

(金鶏)

 

(金鶏説明)

また

北九州市には神武天皇に関係した神社がもう一社ある。

それがこの戸明神社である。

(一の鳥居)

 

(参道)

 

 

(拝殿)

 

(拝殿内)

 

(拝殿の扁額)

 

主祭神の説明)

 

(拝殿神殿)

 

天手力雄大神像)

 

天手力雄大神説明)

 

社務所


神武天皇東遷に伴う九州での寄港地は以上で終わりである。
いよいよ神武天皇の船団は瀬戸内海に向け東進することとなる。

次は  その22 瀬戸内・東への進軍













 

 






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その20 菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)

 

(柁鼻(かじはな)神社一の鳥居)

 

速吸の瀬戸を椎根津彦の水先案内で無事に乗り切った神武天皇の船団は、その後北上を続け、国東半島を大きく迂回し宇佐に上陸した。その上陸地点、国道10号線沿い、宇佐市和気に鎮座しているのが【柁鼻神社】である。

 

鳥居横の由緒書きには

「八幡総本社である宇佐神宮一帯は神武天皇東遷の聖蹟とされ、椎根津彦に先導された神武天皇一行はこの柁鼻の地に上陸されたと言われている。」        とある。

 

(参道)

 

(柁鼻神社二の鳥居)

 

(社殿)

御祭神は鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエヅノミコト・神武天皇の父)、彦五瀬尊(ヒコイツセノミコト・神武天皇の兄)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト・神武天皇

合祀は伊弉諾尊イザナギノミコト)他9柱である。

 

またこの神社のすぐ東側には和気清麻呂が「道鏡事件」に際し、宇佐八幡大神の御神託を得るために奈良から下ってきた折、船を繋いだとする「船繋ぎの石」が残されている。

現在のこの地は森や田畑が広がり、海ははるか遠くになっているが、往古は海がここまで来ていたと思われる。

その場所に小さな祠が鎮まり、その横の柵の中に、船を繋いだと言われる石がある。

 

この柵の中の石がそれである。

 

 

宇佐市内に椎根津彦神社があるとの情報を耳にした。話の流れからよけては通れない話である。

所がナビで探してもわからない。何度ナビをセットし車で走っても、行きつく先は病院である。

まさか病院の中なのか? 車を降りて病院内を歩き回った。

まず石標が目に留まった。

高田医師会病院の敷地の中だった。

病棟の裏、柵に囲まれ鎮座している「椎根津彦神社・椎宮」である。

 

大木の間に小さな祠があった。お参りして次の訪問地「宇佐神宮」に向かう。

 

(左 宇佐神宮拝殿)
大分県宇佐市南宇佐に鎮座する当神宮は亀山頂上上宮と麓に鎮座する下宮とからなり、全国4万社余りからなる八幡様の総本宮である。

祭神は一の御殿に八幡大神誉田別尊(ホンダワケノミコト)・応神天皇)、二の御殿には比売大神(多岐津姫の命・市杵嶋姫の命・多紀理姫の命)、そして三の御殿には

神功皇后(じんぐうこうごう)別名息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)である。

この3殿は国宝に指定されている。

また宇佐神宮の参拝作法は2拝4拍手1拝である。

ちなみに比売大神(多岐津姫の命・市杵嶋姫の命・多紀理姫の命)は福岡県宗像市宗像大社広島県宮島の厳島神社主祭神である。

又2拝4拍手1杯は他に島根県出雲大社新潟県弥彦神社が同じである。

 

 

それでは参道入口から境内を歩いてみよう。

宇佐神宮参道入口)

国道10号線「宇佐神宮入口」の信号を南に折れると、すぐ右側に「宇佐市観光協会」がありその左側が、この表参道入口である。

 

 

表参道入り口の左側は、参道に沿って駐車場になっており、右側は「仲見世」と言われ、10数件の旅館や土産物店がならんでいる。

 

 

最初の大きな鳥居。右に【宇佐神宮】の石標、左に由緒書き。

 

 

表参道はこの鳥居の先でほぼ直角に右折しており、そこには「神輿発祥の地顕彰碑」や石灯籠があり、その先に寄藻川を渡る「神橋」が架かっている。

 

「神輿発祥の地」というのは

西暦743年聖武天皇は疫病や社会不安を鎮めるために大仏建立の詔を出される。

 

但し莫大な費用が課題であったが、宇佐神宮八幡神から「天の神、地の神を率いて、わが身を投げうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させる」という託宣があった。

 

そして大仏完成後、西暦752年、八幡神大仏開眼供養に紫の輿に乗って東大寺を訪れました。この神輿に乗って奈良に向かったことが、神輿の始まりとされている。

 

 

 

 

(参道両側の狛犬

時代を感じさせる佇まいである。

 

(表参道の大鳥居)

 

「黒男神社」

祭神・武内宿禰

境内には多数の摂社や末社が鎮座している。

 

 

表参道に建つ右から「宝物館」「参集殿」

宝物館には国宝の孔雀文磐をはじめ、宇佐神宮弥勒寺にまつわる貴重な文化財を展示している。

 

「参集殿」の前、「初澤池」。奈良の「猿沢の池」、京都の「広沢の池」とともに、

日本3沢の池と言われている。

 

(参集殿正面)



「初澤の池」の前から「大尾神社」へ進む大尾山参道

 

(頓宮・御旅所)

大尾山参道の奥にある御旅所は、夏越祭の時に神様は神輿に乗り、2泊3日間お泊りになります。

 

「参集殿」の隣、右から「神宮庁」,[儀式殿」「お札授与所」。

(勅使斎館)

 

(神宮庁の向かい側「絵馬殿」)

 

菱形池の中の小さな島には「能楽堂」と「木匠祖神社」が鎮座している。

 

 

(【八幡大神】ご顕現の聖地)

神宮庁の前の小道を東に進むと道は突き当りここが【八幡大神】ご顕現の地と言われている。

説明表示板には、八幡大神が3歳の小児として現れ

「我は是、日本の人皇16代誉田天皇応神天皇)なり、我が名は護国霊験威力神通大自在王菩薩なり」と言ったとある。

 

八幡大神ご顕現の聖地・御霊水)

 

冷水は三か所から湧き出ている。

奥の8角形の石には

八幡大神が神馬を召され、天翔けられた時の馬蹄の跡が残されている。

 

 

ひしゃくが置いてあるので、てっきり飲めると思ったが注意書きに「持ち帰り自由だが、飲用には基準を満たしていない。神事などに使用するように」と書かれている。

 

澄んだ水ではあるが、ほこりやごみが入っている。

 

(手水舎)

 

 

(春宮神社・とうぐうじんじゃ)

祭神・菟道椎郎子命(応神天皇御子神

 

(祓所・はらえど)

 

(祓所内部)

祭事の前に神職の皆さんがここでお祓いをしている。

 

(上宮への参道)

 

(亀山頂上へさらに進む参道)

 

 

(参道途中の境内摂社若宮神社

祭神・若宮五神(八幡大神応神天皇の御子仁徳天皇と4柱の皇子を祀る。)

 

(宇佐鳥居)

宇佐神宮独特の鳥居で額や額束がなく、柱の上部に黒い台輪が置かれているのが特徴。この鳥居は木製で県の有形文化財に指定されている。

 

 

(西大門)

桃山文化の華麗な唐破風の門。本殿や勅使門とともに宇佐神宮を代表する建築物の一つ。

 

(授与所)

(拝殿前の御神木、奥に祈祷殿)

 

 

 

(下宮授与所)

「下宮」への道は若宮神社から南に階段を降りる。

 

(下宮拝殿)

かっては御炊殿(みけでん)といわれ神にささげる食事を調理する場であった。創建は810年~824年とされ農業との関係が深いと言われている。

 

(兆竹・さましたけ)

往古宇佐神宮では神事や豊穣、国家の大事を決する時の神意の卜占を摂社若宮神社の拝殿にて対馬の卜部が亀甲を燃やして行っていた。その際この下宮境内の竹を用いて熱した亀甲を「冷まし」たと言われている。

 

 

 

(下宮門)

 

(左・下宮門外の高倉)

県指定の有形文化財である。

(高倉)

 

表参道を授与所まで戻り西参道に入る。突き当りは寄藻川に架かる呉橋がある。

 

(呉橋全景)

境内にある社殿同様の檜皮葺きで、唐破風の屋根に覆われた豪華な橋。県の有形文化財に指定されている。10年に一度の勅使祭の時だけ扉が開かれる。

 

(呉橋に続く勅使街道)

 

さて本筋の神武天皇の話であるが、宇佐へ上陸後の様子を【日本書紀】では次のように説明している。

 

時に莬狭国造(うさのくにのみやっこ)の祖がいた。

名前を菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)という。

その者が莬狭川の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造って御馳走をさしあげた。この時天皇は勅(みことのり)して、莬狭津媛を従臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に娶せられた。天種子命は中臣氏(なかとみし)の遠祖である。

 

その一柱騰宮跡がこちらである。

西参道奥、呉橋の手前左側一帯が「一柱謄宮(あしひとつあがりのみや)」跡と言われている。

石標に聖蹟一柱騰宮跡とある。

 

 

(一柱騰宮の説明石碑)

 

 

 

この跡地には後に国東半島の六郷満山文化に大きな影響を与えた弥勒寺が建立された。

そして境内の神武天皇聖蹟碑はこちらである。

神武天皇聖蹟碑)

 

碑には次のように書かれている。

神武天皇菟狭顕彰碑」

日本書紀】によれば、神武天皇は御東征の時日向を発たれ、椎根津彦命の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸されました。

この時宇佐の国造の祖である菟狭津彦命・菟狭津媛命が天皇一行をお出迎えになり

「一柱謄宮」を建て御饗(みにえ、御馳走)を奉ったことなどが記されています。

これを記念して昭和15年にこの顕彰碑が建てられました。

「一柱謄宮」跡は寄藻川に架かる「呉橋」南側の高台と伝えられ、この一帯は

謄隈(とうのくま)と呼ばれています。

宇佐上陸の地とされる和気地区には柁鼻神社やまた大尾山東側台地には椎根津彦命を

祀る椎宮が鎮座しています。

 

 

また菟狭津彦の石碑が宇佐市南宇佐にある。

県立宇佐高校の正門から40m程下った竹藪の柵の中。

 

石碑には「宇佐津彦命舊跡」 明治15年1月奉建 とある。

 

こうして神武天皇一行はさらに北上を続ける。

 

次は  その21 関門海峡




 

 






















































          

その19 速吸の瀬戸

佐賀関先端から西を望む。右は高島、中央の小さくぽつんと見える島は牛島、牛島の先ぼんやりと見えるのが愛媛県佐田岬。関崎灯台は手前右の森に隠れている。

 

(黒ヶ浜)

佐賀関半島の南に位置する黒ヶ浜は黒い石で覆われており、その多くは蛇紋岩(じゃもんがん)に覆われている。黒い石は打ち寄せる波にゴロゴロと音をたて、長年の研磨により、丸くなり300mの海岸を美しく飾っている。

この黒ヶ浜海岸の直ぐ南に「ビシャゴ岩」という2ッの岩礁がある。

 

(ビシャゴ岩)

神武天皇の船団が細島を発ち速吸の瀬戸に掛かろうとしたとき、海底で大蛸が守っていた神剣を地元の海女 黒砂(いさご)、真砂(まさご)の姉妹が譲り受け、神武天皇に奉献した。

ビシャゴ岩の上にはこの姉妹を祀っている。

また黒ヶ浜とビシャゴ岩は国の登録記念物に登録されている。

神武天皇がこの神剣を奉納したのが、佐賀関に鎮座する速吸日女(はやすいひめ)神社である。

 

(速吸日女神社総門)

 

速吸日女神社の由緒書きには、この様に記されている。

由緒書き(一部省略)

当社は人皇初代神武天皇東遷の途次、海女黒砂・真砂の二神が速吸の瀬戸の海底から大蛸が守護してきた神剣を取り上げ天皇に奉献、そん神剣を御神体として天皇自ら古宮の地に奉斎し、建国の大誓願を立てられたのが創祀である。

とある。

総門を潜ると小さな橋がある。名を白鷺橋という。

神社の謂れによると「古来から当社神使は白鷺といわれ神が白鷺に化して遊び給いしにより名つく。」とある。

 

橋の下、右の池を「垂乳男(たらちお)の池」

 

「左の池・乳女(たらちめ)の池」

 

当社では神剣を守っていた蛸も崇められており、蛸の絵を奉納して一定期間蛸を食べずに願い事をすると大願成就すると言われている。

 

社務所

 

神明社を祀る瑞穂島)

 

(手水舎)

 

(二の鳥居)

 

(炊井・かしぎい)

 

説明文には

「お供えを炊ぐ井戸。又の名を姿見の井戸と称し、心悪しき者は姿映らずという。」

 

参道。左手は見事な藤棚が続く。

 

(神楽殿

 

(三方に瑞垣が回り奥に神殿)

 

(拝殿)

周囲との調和と、歴史を感じさせるしっとりと落ち着いた佇まいに暫く見入ってしまう。

御祭神は

八十枉津日神(やそまがつひのかみ)、大直日神(おおなおびのかみ)、住吉三神(底筒男の神・中筒男神・表筒男神)、大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)

である。

 

速吸日女神社での祭祀の後、神武天皇の船団はいよいよ速吸の瀬戸に差し掛かった。

(速吸の瀬戸)

画面中央の灯標は「豊後平瀬灯標」。岩礁や浅瀬などの障害物や航路を示すために設置された灯火を発する構造物である。

さすがに潮の流れは川の如しである。

 

速吸の瀬戸に差し掛かった時の様子を【日本書紀】ではこのように綴っている。

 

速吸の門(はやすいのと)に着かれた時に、一人の漁師がいて、小舟に乗って近づいてきた。

天皇はこれをお召しになって、そして問うて、「お前は誰か」と仰せられた。

答えて「私は国神(くにつかみ)で珍彦(うずひこ)と申します。曲浦(わだのうら)で魚釣りをしておりますと、天神(あまつかみ)の御子がおいでになると承りましたので、とくにお迎えに参上いたしました」と申し上げた。

また問われて

「お前は私のために先導してくれるか」と仰せられた。

答えて

「ご先導いたしましょう」と申し上げた。

天皇は勅(みことのり)して、漁師に椎竿の先を差し渡して摑(つか)まえさせ皇船に引き入れて水先案内とされ、とくに椎根津彦(しいねづひこ)という名を与えられた。

これは倭直部(やまとのあたいら)の始祖である。

 

この椎根津彦を祀っている神社がある。

先の速吸日女神社から徒歩で10分程の所に鎮座する「椎根津彦神社」である。

椎根津彦神社石標)

これがなければまず入ってはいかない程狭い路地である。

 

階段の先に鳥居が見えてきた。

 

(一の鳥居)

 

(コンクリート製の拝殿)

祭神は椎根津彦命。

相殿に

武位起命(たけいこのみこと)・神武天皇の父親、鵜草葦不合尊(ウガヤフキアエェヅノミコト)の弟。椎根津彦命の父。

稲飯命(いなひのみこと)・神武天皇の兄。

祥持姫命(さかもつひめのみこと)・椎根津彦命の姉、稲飯命の御妃。

稚草根命(わかかやねのみこと)・稲飯命と祥持姫命の御子。

 

(神殿は木造である。)

 

椎根津彦神社の境内からの見晴らし)


この後、神武天皇の船団は椎根津彦の水先案内で無事速吸瀬戸を乗り切り、更に北上を続け宇佐に上陸することになる。

 

次は その20 菟狭津彦(うさつひこ)、菟狭津媛(うさつひめ)

 

 

 

 

 

 

 

その18 「起きよー」 全軍出帆 美々津港

美々津港の北側「権現山」からの全景

美々津港 1番右の小山が「権現山」右に出れば日向灘、左の橋は国道10号線。

橋の奥西側も大きな入り江になっており、そこから耳川の流れにつながっている。

国道10号西側の入り江。

「美々津は古くから海の交易の拠点として歴史を刻み、町の背後にある遺跡からは、畿内、瀬戸内様式の弥生土器が出土している。

美々津が港町として成立するのは江戸時代初期の頃からで、美々津を経済面から支えていたのは千石船を所有していた備後屋、播磨屋と言った廻船問屋達で、耳川上流で生産された材木や木炭を大阪方面に運び、帰路関西方面の特産物や、美術工芸品を持ち帰ることが多く、文化交流の一面を有していた。そして明治、大正頃には美々津千軒と言われるほどの繁栄を見た。」 日向市観光協会の資料より。

 

往時を偲ばせる石畳の町家である。美々津千軒の面影を今に残す町並みである。

 

(国選定保存地区の表示板)

 

 

殆どの家には跳ね上げ式の縁台が設けられている。

夏の夕暮れのひと時、縁台を下ろし涼を求めながら話に花が咲いたことだろうか。

 

(共同井戸)

 

(江戸時代の高札場(再現))

 

家々の郵便受けには「起きよ丸」のデザインが入っている。

この「おきよ丸」は西都原古墳群から出土した「船形はにわ」をモデルにしており、(その16)に記載している、宮崎神宮境内の「起きよ丸」をデザイン化したものである。

昭和15年4月政府は「東行巡路漕舟大行軍」を挙行。神武天皇東遷2600年記念として「起きよ丸」を作り進水し。日向の青年150名が漕舟し4月18日美々津港を船出、途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながら、その月の28日に大阪に上陸。御盾を奉持し陸路橿原神宮に奉納した。(宮崎県神社誌より)

 

さて

神武天皇の東遷ルートは日向灘を北上し、瀬戸内海を東進する計画である。

その為の船が必要である。

神武天皇が東遷の第一歩を美々津に決めたのは、比較的海に近いところに良質の材木があること。

耳川と言う豊富な水量の河川があること。多くの軍船を係留できる港があること等であろう。

神武天皇は美々津の港から西へ3km程、耳川を遡った処の「神立山」から材木を切り出し、耳川を下り美々津の入り江で軍船の建造に掛かった。

 

その間神武天皇が、かり宿としたのが港の南に位置する現在の「八坂神社」の地である。

(八坂神社鳥居)

 

小さな社殿である。資料では境内に「神ノ井」や「磐座・いわくら」があると記されていたが、草深く所在不明であった。

そうこうしているうちに兵も整い軍船も出来上がった。いよいよ出帆である。

入り江の対岸「遠見の山」では毎日凧を上げ風の向きや、潮の流れを観察していた。

そして8月2日(旧暦)を出航日と決めた。

所が前日に風が順風となり潮も穏やかになった。急遽出航するのは今だと決まった。

8月1日の夜明け前である。まず寝ている人たちを起さなければならない。

各家や兵舎を「起きよー、おきよー」と叩いて回った。

これが現在も続いている旧暦8月1日の「おきよー祭り」の言われである。

 

令和7年の「起きよ祭」の様子。

令和7年「おきよー祭り」は9月22日(月)4:30 子供達が立磐神社前の広場に三々五々集まってきた。生徒数は22~23人、及び父兄の皆さん。先生の挨拶の後、立巌神社で4:45から宮司さんのお祓いの後、まだ暗いうちに笹を持った子供たちが各家々を回り「おきよー、おきよー」と笹で雨戸をたたいて回った。

 

(神社でのお祓いの様子)

 

元気な声でお「おきよーおきよー」と笹で雨戸をたたいて回っている。

 

(お祭りの後の記念撮影)そろそろ空が白んでいる。

この後子供たちは学校である。「がんばれー。美々津小学校の子供たち!」である。

 

この日は各家の前には笹が立ち明かりが点いている。

以上が現在の「おきよー祭」の様子である。

 

出帆の日に戻る。
見送りの人達は兵たちの食料準備を急いだ。

当初は丸いお結びに小豆餡を入れるように考えていたようだが、なにせ時間がない。米と小豆を一緒に粉にし、丸めて蒸したものにした。これが今でも美々津の名物となっている。「お船出団子」である。

 

美々津に行かれたらぜひ食して頂き、神武天皇東遷神話に思いを馳せていただきたい。

また早朝の多忙な中、衣服の準備やほころびの修理など、人が着たまま、又立ったまま縫っていたのが「立縫・たてぬい」と言う地域の名前として残っている。

(立縫の里)

 

こうして慌ただしく神武天皇の東遷部隊は美々津を出帆した。

美々津港の沖合には「七ッバエと一ッ神」と言われている岩礁がある。

岩礁が7ツ固まっている。7ツバエと言われている。

 

岩礁はひと塊のみである。1ツ神と言われている。

「七ッバエと一ッ神」

右が七ッバエ。灯台が立っている。

左が一ッ神と言われており、一ッの岩礁からなっている。

神武天皇一行はこの2つの岩礁の間を通ってはるばる「まほろばの国」へと旅立って行き2度とこの地には帰ってこなかった。

その為土地の漁師たちは出漁の時、この2つの岩礁の間を今でも通らない。

なぜなら2度と帰ってこれないから。

 

凧を上げて風の観測をしていた場所の跡には現在《港柱神社》が鎮座している。

(湊柱神社鳥居)

 

(湊柱神社参道)

 

(湊柱神社参道)右は崖になっており、下は美々津の入り江である。

 

(湊柱神社社殿)

祭神は速秋津彦命(ハヤアキツヒコノミコト)

創建は定かではない。水戸(みなと)に於いての、厄除けの神とされている。

 

また神武天皇が出港した場所には《立磐神社》が鎮座している。

(立磐神社鳥居)

 

(手水舎)

 

神武天皇お腰かけの岩の鳥居)

 

神武天皇お腰かけの岩)

 

(二の鳥居)

 

(古札納所)

 

(立磐神社社殿)

右上は国道10号線。

(立磐神社神殿)

 

 

 

 

(拝殿)

由緒は

神武天皇御東遷の際、美々津港よりお船出にあたり航海の安全を祈念されて、この埠頭に海上守護神である底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の三柱の大神を奉斎したのにちなんで第12代景行天皇の御代に創祀されたと伝えられている。

 

(立磐神社扁額)

 

 

 

 

日本海軍発祥の地碑)

 

 

(海軍両爪錨展示)

 


(両爪錨説明文)

 

(美々津港渡し場跡の碑)

 

こうして神武天皇船軍団は美々津港を後にし、日向灘へと漕ぎ出していった。

時に10月5日(日本書紀では)の早朝である。

夏の日の朝は早い。船団は日向の国の沖を北上していく。

右手にはすでに太陽が上がり白波が陽の光にきらめいている。

順調な滑り出しではあったが、その時巨鯨が現れ船団の前方を遮った。

神武天皇はこれを鉾で退治した。そしてこの島を鉾島と名ずけた。

現在の「細島」はこの鉾島が転じたものである。

またこの鉾を収めたと言われているのが、【御鉾神社】である。

(御鉾神社鳥居)

 

日向市大字細島353に鎮座する御鉾(みほこ)神社

御祭神は速秋津日子神ハヤアキツヒコノカミ)、速秋津比売神ハヤアキツヒメノカミ)、埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ)である。

(御鉾神社社殿)

 

この細島には「日向のお伊勢さん」と言われている神社がある。【大御(おおみ)神社】である。

【大御神社】遠景

日知屋海岸の北、伊勢ケ浜の岩礁の上に鎮まる【大御神社】。

この【大御神社】たびたびの津波により、古文書等が流失し、正確な創立年月日は解からない。

言い伝えによると、往古天照大神が皇孫邇邇芸命を日向の国高千穂の峰に天下りさせた時、邇邇芸命は統治まで御游行遊ばされ、この海岸でお休みされたという。そこで後世の人々が、お休みされた場所に祠を建てて、皇大御神を勧請し村の鎮守として崇敬したと伝えている。(宮崎県神社誌より)

 

 

(大御神社1の鳥居)

 

(大御神社境内)

 

社務所

 

(お札授与所)

 

(手水舎)


(拝殿・神殿)

神武天皇ご東遷のみぎり、漁民を困らせていた巨鯨を退治されたという御鉾を収められたことから鉾島と呼び、それが現在の細島に転じたと伝えられている。

天皇はこの時伊勢ケ浜から港に入られ、皇大御神を奉斎する【大御神社】に武運長久と航海安全を祈願されたという。(宮崎県神社誌より)

 

 

(さざれ石)

 

龍神の玉・水中の黒い玉)

 

 

(鵜戸神社1の鳥居)

大御神社の鳥居を潜りすぐ左の小道を東に進めば【鵜戸神社】の鳥居がある。

 

(鵜戸神社に降りる参道・人がやっと離合できる急な階段)

 

参道の急な階段を降りるとそこは砂浜である。

 

(鵜戸神社お社)

 

お社に手を合わせて振りむくと、洞窟に入るまばゆい光が、登り龍の姿を形作っている。

 

登り龍の光を潜った先は青空の下、光輝く日向灘である。


次は 

その19 速吸の瀬戸 - 神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ