神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その11 山幸彦を祀る鹿児島神宮

話は大分それたが、その後の山幸彦の話である。

( 石體神社社殿 )

 

山幸彦は兄弟の争いが鎮まり世の中が穏やかになった頃、現霧島市隼人町の地に宮を構え、その地の経営にあたった。その宮の跡が鹿児島神宮の北東300mの所に鎮座する石體(せきたい)神社である。

この石體神社の地が高千穂宮の正殿があった処で、鹿児島神宮の元宮である。

鹿児島神宮和銅元年(708年)現在の地のに遷座し、その後に社殿を作ったのが石體神社である。

そして石體神社の正面には大きな石碑が建っており、碑文に「神代聖蹟高千穂宮跡」と刻まれている。

( 高千穂宮跡を証する石碑 )

豊玉姫のお産に付いては後述するが、石體神社の由緒書きによると

当時のお産は屋外に産屋を作りその中でお産をしたが、豊玉姫の陣痛が早まり、産屋の屋根の鵜の羽や壁のカヤをふきあげる前に出産した。非常に安産であったためこの故事から石體神社は安産の神様として地域の人達に長く崇敬されている。

そしてお生まれになった御子神の名をウガヤフキアエズノミコト(鵜鴎葺不合尊)(神武天皇の父)と申し上げる。

この石體神社の南西すぐ近くに鎮座しているのが鹿児島神宮である。

( 鹿児島神宮社殿 )

当神宮の由緒は前記の通りであるが、歴史的に信頼できる資料によると、醍醐天皇

(897~931)の時に編纂された「延喜式神名帳」に「大隅国桑原郡鹿児島神社」とあり、南九州では最も格式の高い唯一の式内大社(国幣大社)である。

平安時代には八幡神が合祀されたとされ、それ以降正八幡宮大隅八幡宮、国分八幡宮などど称されている。

建久年間(1190~1199)には社領2500余町歩の広さがあり、江戸末期まで千石を領有していた。

( 大鳥居 )

 

 

( 参道入口 )

 

( 参道 )

 

( 奉納木馬 )

( 神馬舎 )

 

( 社務所 )

 

( 本殿正面の勅使殿 )

 



( 本殿の説明書き )

 

( 拝殿、神殿 )

 

( 拝殿内部 )

正面向拝の柱には巻き付くように龍の彫刻が施されている。

( 拝殿の格子天井 )

拝殿の壁や天井には花や野菜の絵が極彩色にて描かれており、これは薩摩藩のお抱え絵師木村探元の筆と伝えられている。

鹿児島神宮の祭礼の中で全国的に有名なものは 「 鈴かけウマ踊り 」と言われる初午祭である。

御神馬の鈴かけ馬を先頭に多くの踊り手が太鼓や三味線の音に合わせて踊りを奉納する特殊神事があるが、

ここでは5月に斎行されるお田植祭の風景を紹介しておく。

( 鹿児島神宮神田全景 )

 

( 神事祭壇風景 )

テント中央は宮内の田の神像。

( 教育委員会による田の神様の説明書き )

 

( 宮司、田の神様、神職の入場 )

 

( 宮内の子供たちによる早男早乙女の入場 )

 

( 田の神様の前での神事 )

 

( 田の神舞の奉納 )

 

( 田の神による鍬入れの儀 )

 

( お田植風景 )

 

( お祭りの後 )

“ 今年も豊作になりますように ” 祈りをこめてのお田植祭も無事終了。

 

次は ( その12 豊玉姫の出産と夫婦の別れ )

 

 









 











 

 

その10 山幸彦、海神の国から帰還する。

( 山幸彦が海神の国から帰還したと言われている宮崎県青島海岸 )

山幸彦が海神の国へ来て3年がたとうとしている。

日本書紀】では山幸彦の様子を次のように綴っている。

神の国は楽しい所ではあるが、やはり望郷の念があり、時に大きなため息をついた。それを聞いた豊玉姫は父に対し、「おそらく故郷を思い出しているのでしょう」と話した。海神は自分の部屋に山幸彦を招き入れ、「天孫がもし故郷に帰りたく思うのであれば、私が送りましょう」と申し上げた。そして先に探し当てていた釣り針を渡して「この釣り針を兄上に渡すときにひそかにこの釣り針に対して ” 『貧針(ましち)』”と仰せられてその後でお渡しなさい、」と申し上げた。また潮満玉(しおみつ玉)と潮涸玉(しおふる玉)とを差し上げて、「潮満玉を水に浸せば潮がたちまち満ちてきて、それで兄上を溺れさせなさい。もし兄上が謝ったなら潮涸玉を水に浸すと潮は自然と引くでしょう。そしてそこで兄上を助けてあげなさい。そうすれば兄上も降伏するでしょう。」と申し上げた。

又山幸彦が海神の国を去るに際して豊玉姫がやってきて

「私はもう身ごもっています。出産も間近です。私は風波が激しい日を選んで海辺に出てまいりましょう。どうかわたしのために産屋を作ってお待ちください。」

と申し上げた。

と記されている。

この山幸彦の帰還の舞台が宮崎市の青島海岸である。

 

( 宮崎市の青島、島の右遠くに青島神社の鳥居が見える。)

日南海岸国定公園に位置するこの青島は、周囲1,5Km程。この小さな島には樹齢300年以上のビロウやハマカズラなど特別天然記念物に指定されている亜熱帯性植物が生い茂っている。

また青島は800万年~1000万年前の地層が侵食されてできた波状岩で囲まれており、これが洗濯板のように見えるところから、「鬼の洗濯板」(天然記念物)と呼ばれ親しまれている。(青島ビーチセンターパンフレットより)

この青島であるが、昔から霊地として一般の入島は許されず、藩の島奉行と神職だけが入島し一般の入島は旧暦3月16日の島開祭から島止祭(同月末日)までのみ許されていた。

その後元文2年(1737年)当時の宮司長友肥後が一般の参拝者にも常に入島を許されるように藩主に願い出て、許可され以後入島が自由になった。

そしてこの青島に鎮座しているのが山幸彦(ヒコホホデミノミコト)、豊玉姫をお祀りする青島神社である。

 

( 青島神社鳥居 )

 

( 参道 )

 

( 手水舎 )

 

( 青島神社社殿 )

 

( 拝殿内部 )

 

( 元宮へ行く参道に設けられた絵馬かけ )

 

( 元宮 )

 

青島神社の元宮で往古は小さな祠であったようだ。この地から弥生時代の土器や獣の骨などが出土している。

( 元宮の社の奥にある「天の平瓮投げ」(ひらかなげ) )

径7~8㎝の素焼きの小皿を投げ入れることで心願成就とし、小皿が割れると開運厄払になると言われている。平瓮(ひらか)とは土器の小皿の事である。

鬱蒼とした南国の樹木に覆われたこの島は全てが青島神社の境内地であり、一角には平成12年にオープンした「日向神話館」がある。館内には30体の蝋人形と12の場面で神話の物語を再現している。

 

さて、山幸彦は海神の国から帰還したのちこの青島に宮居を設け住んだとされ、この神社はその宮居の跡と言われている。

山幸彦が帰還した時には、にわかの帰還であったため村の人達は衣服を着る暇がなく真っ裸で海岸にお迎えに出た。

この故事により昔は夜半から起きだした若い男女が夜を徹して真っ裸で神社に参拝しており、沿道から神社境内までこれらの男女と参拝者で大いに混雑したと言われている。

現在は「裸参り」として毎年成人の日に寒風をついて氏子青年や信者が社前の海水に浴して静かに祈願する形に変わっている。

 

帰還後の兄海幸彦との関係であるが、『貧鉤(ましち)』と呪いをかけられた釣り針を渡された海幸彦は次第に貧しくなり心も荒んできて、ついには山幸彦に戦いを挑んできた。

山幸彦は海神の教えに従い『潮満玉』『潮涸玉』で海幸彦を苦しめた。海幸彦は自らの非を認め「今後、私はあなたの俳優*1(わざおぎ)の民となりましょう。どうかお助け下さい」と申しあげた。この海幸彦(ホノスソリノミコト)は吾田君小橋(アタノキミコハシ・隼人)の祖先である。

この海幸彦(ホノスソリノミコト)を主祭神としてお祀りしているのが、日南市北郷に鎮座する潮嶽神社である。

(日南市北郷県道28号、ひむか神話街道沿いに鎮座する潮嶽神社の鳥居)

 

 

(潮嶽神社拝殿)

 

(本殿、神殿)

 

(拝殿内部)

 

(如何にも時を感じさせる狛犬である)

潮嶽神社の由緒によると、山幸彦(ヒコホホデミノミコト)との戦いに敗れた兄の海幸彦(ホノスソリノミコト)が巌船に乗り流れ着いたのが当地だという伝説があり、この地に宮居を構えこの土地を治めた跡が潮嶽神社と言われている。

多くの神社の中で海幸彦(ホノスソリノミコト)を主祭神としてお祀りしているのはこの潮嶽神社のみである。

またこの土地には古くからの風習として縫い針の貸し借りを禁じている。

これは海幸彦と山幸彦が釣り針がもとで争ったことに起因していると言われている。

また子供が生まれ初宮参りの時にこの神社の宮司は赤ちゃんの額に紅で「犬」と書く。兄弟の争いに敗れた海幸彦は、弟山幸彦の許しを請うために

赤土を掌に塗りそれを顔に塗って弟に「私はこのように体を汚した。永久にあなたの俳優となりましょう」と申し上げた。そして足を挙げて踏み歩き、溺れ苦しむさまを真似した。

と【日本書紀】には記す。

1300年前に書かれた【日本書紀】の記述が今に生きていることはなんとも感慨深いものがある。

それにしてもこの兄弟の争いは、弟の山幸彦が兄の釣針を失くしたことが原因である。

兄がこの様な立場になるのはなんとも気の毒な話ではある。

話は変わるが、『潮満玉』『潮涸玉』のその後の話である。

もちろん【日本書紀】にはこの事について何も綴られていないが、先日宮崎県神社誌を読んでいると、興味深い神社を発見した。

それがこの鹿野田神社である。

( 鹿野田神社社殿 )

 

宮崎県西都市に鎮座するこの神社の創建は詳しくは解からない。

享保11年(1726年)社殿を再興した時の当時の棟札から弘安年間(1278~88年)以前より勧請された古社であることが推考されている。

御祭神は兄弟の戦いに勝ったヒコホホデミノミコトである。

【日向地誌】によれば

境内に《 潮井 》があり海岸より15km程離れているにも関わらず海潮の干満に合わせて水面が上下し、大潮の時は井戸より溢れ出て地上に氾濫する。その味は海潮と少しも異ならず、奇なりといへり

と書かれている。

 

( 鹿野田神社二の鳥居。左の建屋は手前に手水舎、奥が潮井。 

 

( 左手水舎、右潮井の建屋 )

潮井建屋の内部はこのようになっている。

( 井戸はきれいに管理されていて、ひしゃくも準備されている。)

 

(御神水への志が書かれている)

 

( 井戸の横の小さな祠は豊玉姫を祀る潮神社 )

 

( 満潮の時には横の道路迄潮が溢れ出す )

当然の事であるが筆者も飲ませていただいた。

海の潮より少し塩味が薄いような感じではあるが、まろやかで美味しいと感じる味である。

通りかかったお年寄りに話を伺った。

「この集落はもとは10軒ほどあったが、若い人が出て行って今は5軒になっている。宮司さんは5年程前亡くなられて、今は遠くの神社の宮司さんがお祀りしている。日頃の掃除など管理は私ら年寄りが行っている。私らの小さいころはこの神社の境内が遊び場所だった。この潮井の冷水は飲んだり料理に使ったり、夏場あせもが出来た時など汲んで帰り風呂に沸かせて入るとすぐに治る。」との話である。

海からの距離を考えればなんとも不思議ではあるが、ロマンあふれる話ではある。

 

 

次は ( その11 山幸彦を祀る鹿児島神宮 )

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

*1:わざおぎとは滑稽な所作をして神や人を楽しませる人の事。実際には祭祀に於ける犬の吠え声や隼人舞等歌舞の人達と考えられる。

その9, 山幸彦(ヒコホホデミノミコト)   兄海幸彦(ホノスソリノミコト)との争いとトヨタマヒメとの結婚

( 薩摩半島最南端 長崎鼻  竜宮神社の境内から撮影 )

早朝の長崎鼻に立った。汐の香りとさわやかな海風が心地よい。白い灯台、青い海と空、天気の良い日にはこの灯台の遥か先に屋久島や硫黄島を望むことができる。

そして此処からヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトの物語が始まる。

( 指宿市長崎鼻に鎮座する、トヨタマヒメノミコトを祀る竜宮神社。 )

竜宮神社は古来よりこの長崎鼻の断崖の上に、トヨタマヒメノミコトを祭神として鎮座しており、当時は小さな石の祠であった。

その後村人たちが木造の社殿を作ったが、昭和34年の台風により、社殿が倒壊したのを機会にコンクリート製にて建立されている。。現在の社殿は平成24年に老朽化を理由に建て替えられたものである。

( トヨタマヒメノミコトを祀る本殿 )

 

( 願いの貝塚 )

貝殻に願い事をしこの館に奉納すると竜宮の使者が幸せを届けてくれると、説明版には書かれている。

 

( 手水舎と鳥居 )

鳥居の先に長崎鼻灯台を望む。

 

西方には開聞岳を望む。

ニニギノミコト崩御された後の話である。

兄のホノスソリノミコト(海幸彦)と弟のヒコホホデミノミコト(山幸彦)は薩摩半島を分け合って領有することになったのではないかと思われる。

そしてヒコホホデミノミコトが兄の釣針を紛失したことによって争いになる。

その様子を【 日本書紀 】ではこのように語っている。

『 兄のホノスソリノミコトは海岸地帯で漁を仕事とし、ヒコホホデミノミコトは山岳地帯で狩猟を仕事とした。

” ある時、兄弟二人は相談して「試みに道具を取り換えてみよう」と仰せられ、ついに交換した。

ところがどちらも獲物を得ることがなかった。

兄は後悔して弟の弓矢を返して、自分の釣針を返すよう要求した。

弟はその時すでに兄の釣針を失っていて、探し求める方法がなかった。

そこで別に新しい釣り針を作って兄に与えた。

兄は承知しないでもとの釣針を返すよう責めた。

弟は心を痛めてさっそく自分の太刀を鋳つぶして新しい釣り針に鍛え上げて箕一杯盛りあげて与えた。

兄は怒って「私のもとの釣針でなかったらどんなにたくさんでも受け取らぬ」と言ってますますまた責めたてた。

そのためにヒコホホデミノミコトは心痛されること甚だ深く、海辺に行って嘆き呻吟しておられた。

その時塩土の老翁(しおつちのおきな)に出会った。老翁は訪ねて 「なぜこんな所で悩んでおられるのか」と申し上げた。

ヒコホホデミノミコトは事の一部始終をお話しされた。老翁は話を聞き、さっそく密に編んだ隙間のない籠を作り、ヒコホホデミノミコトをその中にいれて海に流した。するとひとりでに美しい浜に着いた。

ここで籠をすて出歩いて行かれた。するとたちまち海神の宮殿に着いた。

その宮殿は姫垣がきれいに整っており、高楼は美しく輝いていた。門の前には一つの井戸があった。井戸の傍らには一本の神聖な桂の樹があった。枝葉はよく繁茂していた。

ヒコホホデミノミコトはその樹の下を行きつ戻りつしておられた。一人の美人が脇の小門を押し開けて出て来た。そうして井戸までやってきて美しい鋺で水を汲もうとした。

その時、水影を見て振り仰いでミコトを見つけた。驚いて宮殿の中に戻って、父母に「一人の珍しい客人が門前の樹の下にいらっしゃいます」と申し上げた。

そこで父の海神(ワタツミノカミ)は幾重もの畳を敷き設けて、宮殿のなかへミコトを引き入れた。』

これが山幸彦の竜宮行の話である。

 

指宿市に開聞町というところがある。以前は鹿児島県揖宿郡開聞町であったが平成18年に

指宿市に合併された。この開聞町が合併以前に編纂した開聞町郷土誌にはヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトの出会と結婚,そしてその場所が詳しく記されている。

 

二人が初めて出会ったと言われる井戸、「玉ノ井」がこれである。

( 指宿市開聞にある玉ノ井 )

トヨタマヒメノミコトが水を汲みに来た井戸である。

( 玉ノ井内部 )

( ヒコホホデミノミコトトヨタマヒメとが出会ったと言われる井戸 )

現在は安全のため開口部のすぐ下で塞いでいる。現在でも近在の人がお参りにきている。

( 拝顔・おがんご )

玉ノ井の裏一帯を、ヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトが初めて顔を合わせた所、拝顔、(おがんご)(拝み顔⇒おがみがお⇒おがんご)と言われ、地名として残っている。

また近くを流れる小川は 御返事川(ごへんじがわ)と呼ばれている。

( 御返事川・ごへんじがわ )

ヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトが言葉を交わしたのが、この川のあたりと言われている。川幅2mくらいの小さな川であり、さわさわと清らかな流れの中に小魚が群れている。。

トヨタマヒメノミコトの父ワタツミノカミがヒコホホデミノミコトを饗応した御殿を饗殿といったが、現在京田(きょうでん)という地名で残っている。

( 饗殿があったと言われる跡 )

玉ノ井地区に隣接したこの場所が饗殿の跡といわれ、今でもこの土地一帯を京田(きょうでん)集落と言っている。

そして開聞町郷土誌には

タツミノカミは二人の結婚を許し、早速 「入野の婿入り谷」に新居を建ててやり、ここで二人の生活が始まった。

JR指宿枕崎線で有名な駅は ” 日本最南端の駅 ” 西大山駅である。この駅から

西に4駅目が入野駅である。

( 日本最南端の駅 JR西大山駅 )

 

( 入野駅は開聞岳の裾野、単線のひなびた無人駅である )

開聞町郷土誌には、父ワタツミノカミは結婚が決まった二人のために入野の婿入り谷に宮殿を作り二人の新居としたとある。

一年前にこの婿入り谷が何処か、かなり時間をかけて探したがわからなかった。

今回は博物館に担当の方を訪ね、おおよその位置を聞いたうえで探すことにした。

そしてまずは土地の神社にお参りをしてから出発と思い、鹿児島でも有名な薩摩の国一の宮枚聞神社(ひらききじんじゃ)に向かった。

( 枚聞神社の二の鳥居。広島の厳島神社の鳥居と同じ両部鳥居である ) 

( ここにも海幸彦、山幸彦の話が書かれている。 ) 

( 枚聞神社本殿。薩摩地方で1,2を争う神社である。)

主祭神は大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト・大国主命)。本殿の後ろに開聞岳が重なっている。

往古は開聞岳御神体とした山岳宗教に根ざした神社であったと言われている。

早朝であったため神職の皆さん総出で境内や神殿の掃除の最中であった。宮司さんに少しお話を伺った。

例の婿入り谷の場所についてである。宮司さんの曰く「私どもも気にはなり調べもしたのですが一向に分かりません。探してもしわかれば教えてください」とのお話。

何となく宿題をもらった気分で、入野に向かった。

駅の周辺には人家がまばらにあるが、玄関で声をかけても人の気配はない。谷と言うからには山の方だと、とにかく歩き出す。幸い畑仕事をしているお年寄りがいたので聞いてみると。

「山道を頂上に向かって10分程歩いたところに左に降りる道がある。それを下ったところが昔から「婿入り谷」と言われています」と教えてくれた。

やっと見つけたと思い勇んで登っていくと、お年寄りの言う通り左に下る道があった。

( 頂上へ行く道との分岐点 )

しかしその後が悪かった。10mも進むとその先に道はなく深い森だった。

( ここで道が途切れている。)

倒木や雑草で進むことは不可能である。なんとも残念である。

( 深い森になっている。)

念のために一旦下山し谷の西側を登ってみた。

畑はここで終わっておりこの先は深い森になっている。位置的に考えておそらくこの森が婿入り谷であろうと考えられる。

このほかにもヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトが宮居を構えたと言われるところが近くにある。

その場所に小さな神社が鎮座している。

( 指宿市玉ノ井に鎮座する霧島神社 )

 

( 霧島神社社殿 )

 

( 霧島神社由緒書き )

 

( 霧島神社の南側。開聞岳まで障害物がなく素晴らしい景観である。)

ここ指宿の名物は温泉とこの薩摩富士と言われる開聞岳である。

( 露天風呂「たまてばこ温泉」から撮影。)

( 国道226号からの開聞岳 )

開聞岳はどこから見ても美しい姿である。

 

さて、前記【日本書紀】の続きである。

『海神は命に来意をお尋ねになった。そこで山幸彦は今までの事情を細かに話された。海神は大小の魚を集め訪ねた所、「近頃赤魚が口の病気があって来ておりません」との事でさっそく赤魚を召して口の中を探ると、果たしてなくなった釣り針が出て来た。』その後山幸彦は豊玉姫を娶られた。

神の国で3年が過ぎ故郷を思う気持ちが次第に強くなるヒコホホデミノミコトに最後の戦いを挑む兄ホノスソリノミコトが待ち構えている。

次は  その10 山幸彦海神の国から帰還する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その8、ニニギノミコトを祀る神亀山 新田神社

( 新田神社本殿 )

新田神社の参道は、神亀山から真っすぐに南にのび、川内川の堤につきあたる。

江戸時代まではここに船着き場があり、川から直接参道に入れたようである。参道入り口には大きな楼門があった.(三国名勝図絵より)。

楼門をくぐるとすぐに一の鳥居が建っている。

( 新田神社 現在の一の鳥居. 川内川河畔より神亀山方向 )

川内川のすぐ傍に立つ一の鳥居。此処から直線の表参道が二の鳥居まで続き、参道の両側は全て桜の木で埋められ4月には 「 新田八幡さくら祭 」が行われている。

およそ1km程続く桜参道。

 

( 二の鳥居 )

県道44号線をまたいで二の鳥居があり、その向こうに降来橋が見え、その先は神亀山である。

 

( 新旧の降来橋 )

鳥居側の大きな石橋は比較的新しく区画整理の時にでも作られた橋のようだが、手前神社側の橋は古くからあるものを、明治25年にかけ替えられた立派な太鼓橋である。

「三国名勝図絵」の八幡新田神社の項には「鎌倉時代中期降来橋に於いて舞楽あり、桟敷53軒見物人3万人云々」とあり、この頃から橋の存在を確認でき、神社の盛大な勢いを感じさせられる記録である。

橋の下には幅4m位の銀杏木川が流れている。

水量はあまり多くはないが、ゆったりとした流れの中、川底の小石が陽の光に輝き、清らかな水中には小魚が群れを成している。

振り返って神社側を見ると、まず長い階段が目に付く。

まず約110段の階段がある。

 

東側の東門守神社 豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)をお祭りしている。

西側の西門守神社 祭神は櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)で両方とも御門守護の神である。

この階段を登り詰めると、ちょうど神亀山の中腹にあたり、広場になっている。

( 中腹の広場。右手には頂上への階段がある )

 

中腹左手には小さな社が並んでいる。

右から 高良神社・祭神天鈿女命(アメノウズメノミコト・ニニギノミコトの降臨時御伴の神) 中央神社・祭神大山祇神(オオヤマツミノカミ、山の神、コノハナサクヤヒメの父神) 早風神社・祭神級長津彦神(シナガツヒコノカミ、風の神)。

この祠の前には古い礎石が残されている。

 

実は新田神社は往古この中腹に鎮座していた。ところが高倉天皇の承安3年(1173年)正殿以下全てが火災により焼失したため、安元2年(1175年)に頂上に遷座した。

これはその当時の礎石の一つである。

 

この中腹の広場から頂上へ登る階段がある。

 

これが広場から頂上に向かう210段の階段である。遥か先に神社の建物がかすかに見える。

( ご神木であるオオクス )

高さ約20m、幹回り約10m、樹齢は約650年~800年と言われている。

このクスノキには地上2mの所に大穴牟遅神(オオナム千ノカミ)(オオクニヌシノミコトの別名)の像が彫られている。

かなり時間をかけて探してみたが、その像がはっきりとはわからない。

400年の時の流れを感じる。

これは島津家の家老、阿多長寿院盛淳が1600年関ヶ原の戦いに際し彫ったものとされている。

盛淳は島津軍退却の折、主君義弘の身代わりとなって討ち死している。

そして頂上にある新田神社である。

( 新田神社 社殿正面 )

 

新田神社は古くから皇室の崇敬も厚く薩摩一の宮とされている。

創建は神亀2年など諸説ありはっきりしたことはわからない。社殿は本殿から南に幣殿、拝殿、舞殿、勅使殿と一直線に並んでいる。本殿両側には摂社を配し全体を回廊で繋いでいる。祭神はアマテラスオオミカミアメノオシホミミノミコト(ニニギノミコトの父神)、ニニギノミコトの3柱の神である。

( 一番奥の本殿 )

 

( 東回廊 この奥に若宮四所宮がある。)

四所宮にはヒコホホデミノミコトニニギノミコトの三男・山幸彦)、トヨタマヒメノミコト(ヒコホホデミノミコトの妃)、ウガヤフキアエズノミコト(ヒコホホデミノミコトの長男)、タマヨリヒメノミコト(ウガヤフキアエズノミコトの妃)の4柱の神が祀られている。

( 西回廊 )

この奥は摂社武内宮である

勅使殿東は御祈願受付所、お守り授与所がある。

( 絵馬、おみくじ納所 )

 

( 東の狛犬 )

 

( 西の狛犬 )

 

双方ともいかにも古びた、なんとなくほっこりする狛犬である。

( 新田神社の神田 )

6月のはじめ梅雨入りの前に 「 お田植祭 」 を10月には 「 抜穂祭 」 が斎行される。収穫されたコメは神社の神事に供されている。

新田神社で特筆すべきことは、収蔵文化財の多さである。

中でも三面の銅鏡、7巻の古文書は国指定の重要文化財であり、その他県・市指定の文化財が多数収蔵されている。

毎年8月にはこれら文化財の 「 御宝物虫干祭 」 が斎行されている。

川内川の豊富な水量に支えられ今年も豊作である。稲刈りもほぼ終わり、今日も一日が終わろうとしている。

次は 

(     その9 山幸彦(ヒコホホデミノミコト)  兄海幸彦(ホスセリノミコト)との争いとトヨタマヒメとの結婚 )   

 

 

 

 

 

 

 

その7、ニニギノミコト終焉の地 薩摩川内

(  薩摩川内市を東西に流れる川内川。滔滔とした流れは左方10kmほどで東シナ海に注ぐ )

熊本県あさぎり町の白髪岳をその源とし、宮崎県、鹿児島県を通り、東シナ海に注ぐ。

九州では筑後川に次ぐ137kmの第2の長流である。

 

ニニギノミコト一家は海上吹上浜の沖を北上、市来、羽島崎を経て、この川内川河口に着いた。

この薩摩川内という地には、奈良時代国府が置かれた。

その理由として、この肥沃な沖積平野が人間の食生活を支える海の幸、山の幸をもたらしていること、またこの地が古くから水陸交通網の要衝を成していたこと、川内川と周囲の山々が天然の要塞になっていたことなどが考えられる。

ニニギノミコト天下り、日向各地を遠征し熊襲・隼人を従えこの地に日向王朝の礎を築いた。そしてその子ヒコホホデミノミコや孫のウガヤフキアエズノミコトがそれを発展させ、ひ孫の神武天皇までつながっていったというのも、なるほどと頷けるものがある。

河口の近くに新田神社の末社である船間島神社がある。ニニギノミコト一行が北上する船の水先案内者であり、この地で病死した十郎太夫を祭神としている。

( 船間島神社の案内板 )

 

( 船間神社への参道 )

 

( 船間神社社殿 )

また船間島から東に1Kmほどの所に月屋山がある。

 

( 月屋山全景 )

ニニギノミコトはこの山に掛かった月を愛でられて、月見山と名ずけられた。のち月夜山となり、現在月屋山と言われている。

ニニギノミコト一行は川内川を遡り初めに宮居を置かれたのが新田神社の対岸、宮里の地である。

( 川内川畔宮里地区 )

この宮里の地には新田神社の前身の社があったと伝えられている。また宮居跡と言われる付近からは石器や鉄の直刀が出土しており、弥生時代から古墳時代にかけて、いわゆる古代人が住んでいたと言われている。

その宮居跡と言われているのがこちら宮里地区日吉である。

現在この地には市内の区画整理で移動を余儀なくされた田の神が祀られている。

この後宮居は現在の都町に移転し、その宮居跡に都八幡神社が鎮座している。

 

( 都八幡神社 )

市中心部から南へ5km程、住宅地の中の坂道を少し登ったところが、かなり広い平地になっている。

2021年秋に参拝した時には台風被害で躯体を残しほとんどが損傷しブルーシートで覆われていた。今回2年後に訪問したが、やはり同じ状態であった。

ニニギノミコトの宮はこの後宮ノ原から屋形原へと移り最後は神亀山に宮居を構え、ここで最期を迎えることとなる。

( 屋形が原のニニギノミコト宮居跡 )

説明書きに( 神代聖蹟ニニギノミコト寓居址 )と記されている。

昭和15年(1940年)が初代神武天皇即位2600年にあたり、これを日本中で祝う奉祝行事が行われた。その一環として各地の神武天皇聖蹟調査が行われた。

その結果文部省が妥当だと判断したものについて次々と石碑が建てられていった。時は日中戦争の真っただ中である。これも国威発揚に寄与したと思われる。

このブログで紹介している旧跡はほとんどがその当時のものである。

 

( 市街地の中にこんもりと盛り上がった山である。正面の山が亀の甲羅部分にあたり、左の小さな山が頭と言われ亀に似ているところから、神亀山と言われている。)

ニニギノミコトが最後に宮居を置かれたのはこの神亀山と言われており、崩御後にこの頂上に葬られた。

神亀山の長い階段を登ると新田神社にたどり着く。その神社の前を通り右手の小さな階段を降りると宮内庁の管理事務所があり、その奥にニニギノミコトの可愛山陵(えのみささぎ)がある。

( 宮内庁の管理事務所 )

 

( ニニギノミコトの可愛山陵 )

可愛山陵(えのみささぎ)は、高屋山上陵(たかやさんじょうりょう、山幸彦・霧島市)、吾平山上陵(あいらさんじょうりょう、ウガヤフキアエズノミコト・鹿屋市)と共に神代三山陵と呼ばれてる。

 

日本書紀】に『 しばらくたってニニギノミコト崩御された。そこで筑紫の日向の可愛山陵に葬り申し上げた。』とある。

但し他にも宮崎県の俵野古墳や同県西都市の雄狭穂塚をこれに充てる説もあったが、明治7年7月御裁可を経てこの地に勅定されている。

またこの神亀山にはニニギノミコトの妃コノハナサクヤヒメと長子、天火照命(アメノホデリノミコト)の御陵がある。

( コノハナサクヤヒメ陵の入り口 )

亀の頭の部分の森は全体がフェンスに囲まれており南北2か所に扉が点いている。中に入るとかなり雑草が生えているが参道の小道はきれいに手入れされている。

( 端陵と言われているコノハナサクヤヒメ陵の鳥居 )

 

( コノハナサクヤヒメの端陵 )

端陵(はしのみささぎ)と言われ、神亀山の頭の部分の頂上に祀られているコノハナサクヤヒメの御陵である。

小さな祠が建てられており、この中には神鏡1面が治められている。土地の人達からは「御前様の陵」として親しまれ、鬱蒼とした森の中ではあるが、ここだけは光がさしている。



( 「端陵」の説明文 )

また神亀山の首の部分には、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメの長子天火照命の御陵がある。

( 「中陵」の入り口に立つ鳥居 )

火照命の御陵と言われている「中陵」(なかのみささぎ)は「端陵」と同じく深い森の中である。

( 「中陵」 )

わずかに薄日の射す祠を覆うように、緑の木々に囲まれ鳥のさえずりもなく、ただ静かである。

この「中陵」については江戸時代(1806年)祠の4隅に植えられていた松の木の1本が枯れたので、土地の人が撤去するため根を掘り起こしたところ石棺に掘りあたった。

中を見ようと蓋を少しずらすと隙間から白気が噴出し、内部は青赤い色に見えたので人達は恐れをなして、掘るのをやめてもとに戻した。との話が伝わっている。

 

( 「中陵」の説明文 )

この両陵とも「端陵神社・中陵神社」として新田神社の末社である。

 

薩摩川内は遺跡の多い土地である。

神亀山から3Kmほど北西に行ったところの五代町に冠山という山がある。

高さ20mほどのその山の麓に新田神社の末社である川合陵神社がある。

( 川合陵神社のへの案内標識 ) 

ここは【日本書紀】でいうニニギノミコトの第三子(または兄)天火明命の陵と伝えられ、土地の人は「陵殿」(みささぎどん)と呼んでいる。

( 川合陵神社鳥居 )

( 川合陵神社社殿 )

( 川合陵神社由緒書 )

ニニギノミコトが最期を迎えられたのが神亀山。頂上の「可愛山陵」に葬られたが、その陵を守るように新田神社は鎮座している。

次は (    その8、ニニギノミコトを守る神亀山 新田神社 ) を詳しくお伝えする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その6、 ニニギノミコトの結婚と三皇子の誕生

( 野間半島ドライブコース )

笠狭に落ち着かれたニニギノミコトの様子を【古事記】から拾ってみよう。

『 ある時、海浜を歩かれて、一人の乙女に逢った。ニニギノミコトは「お前は誰の子か?」と仰せられた。

答えて

「私はオオヤマツミノカミの子で名はコノハナノサクヤヒメと申します。

そして私の姉にイワナガヒメがおります」と申し上げた。

皇孫は「私はお前を妻にしようと思う。どうか?」と仰せられた。

答えて「私の父オオヤマツミノカミがおります。どうか父に御下問なさってくださいませ」と申し上げた。

そこで皇孫はオオヤマツミノカミに語って「私はお前の娘にあった。妻にしようと思う」と仰せられた。

そこでオオヤマツミノカミは早速二人の娘に、台に載せたたくさんの飲食物を持たせて献上した。

所が姉のほうが醜かったので、ニニギノミコトは姉を実家に帰してしまわれた。』

『 それから暫くたってコノハナノサクヤヒメニニギノミコトの所へやってきて「私は妊娠しました」と告げた。

ニニギノミコトは「コノハナノサクヤヒメよ、一夜にして妊娠することはないであろう。それは我が子ではない。きっと国つ神 *1 の子であろう。」と仰せられた。

コノハナノサクヤヒメは「私が妊娠した子がもし国つ神の子であれば産むときに無事ではありますまい。もし天つ神の御子であれば無事でしょう。」と申して、無戸室(ウツムロ)と言われる戸口のない神聖な建物を作り、その建物の中に入り、土で塗り塞いで、今まさに出産しようとする時にその建物に火をつけて3人の御子を産んだ。

火が盛んに燃えているときに産んだ子の名は火照命(ホデリノミコト)、海幸彦と言われ阿多隼人の祖先と言われている。

次に産んだ子は火須勢理命(ホスセリノミコト)。

次に産んだ子の御名は火遠理命(ホオリノミコト)、またの名は天津日高日子穂々手見尊(アマツヒタカヒコホホデミノミコト)。(山幸彦。初代神武天皇の祖父)の3柱である。』

 

笠沙の宮跡の向かいに竹屋ケ尾という小高い山がある。

( 竹屋ケ尾全景 )

頂上には無戸室(うつむろ)跡と言われ、コノハナノサクヤヒメが出産した場所と言われる石碑が立っている。

見た所そんなに高くもないし、その石碑の写真も撮りたいと思い、登山口を探したが、見つからない。

近くの公民館に訪ねた所、「 しばらく誰も登っていないので登山口も登山道も木や草が生い茂りわからなくなっている。」との返事。

状況だけでも見ておきたいとおおかたの登山口の場所を聞くと、「あの山は蛇が多く、特にマムシが多いですよ。」との事。蛇がことのほか嫌いな筆者である。即決行くのを中止した。

3皇子はこの舞敷野で生まれ次の宮居である宮原で成長することになる。

この宮原の宮居跡には石碑が建っており、竹屋神社が鎮座している。

( 笠狭の宮跡の石碑 )

横の小さな碑には南さつま市教育委員会の説明文が記されている。

( 笠沙の宮跡の説明碑 )

この宮跡の西隣に鎮座するのが竹屋(たかや)神社である。

 

( 南さつま市加世田宮原に鎮座する竹屋(たかや)神社 )

 

( 竹屋神社拝殿 )

( 竹屋神社拝殿内部と奥に神殿 )

祭神は中央本宮にヒコホホデミノミコトトヨタマヒメのミコト。

東宮にホスセリノミコト、西宮にホテリノミコトをお祀りしており、旧社格は県社である。

( いかにも古社を思わせる対の狛犬 )

日本書紀】に出産後の様子を

『 竹の刀をもってその御子のへその緒を切った。その時に捨てた竹の刀は後に竹林となった。その地を名付けて竹屋と言った。

又その時コノハナサクヤヒメは占いによって定めた神聖な田を名付けて狭名田(さなだ)と言った。

の田の稲で天甜酒(あまのたむさけ)を醸して神と饗応した。又渟浪田(ぬなた)の稲をご飯に炊いて神と饗応した。』 とある。

 

竹屋神社の境内には3兄弟が生まれた時, へその緒を切るために竹屋ケ尾の竹で竹刀を作り、へその緒を切った。それを捨てたものが根付いたと言われている竹藪が「へら竹山」と言われそこから株分けした竹が境内に生えている。

(へら竹山から株分けした竹)

また狭名田の長田と言われているのがここである。

( 霧島市田口にある狭名田の長田全景 )

 

( 狭名田の長田の説明書き )

 

火々出見の命(山幸彦)達3兄弟はこの笠狭の後宮ともいわれる宮原の地で成長する。

その後一家は薩摩川内へと移り住むこととなるが、これ以降のニニギノミコトコノハナサクヤヒメについての記述は【古事記】【日本書紀】ともになく 最後に 

『久しくたってニニギノミコト崩御された。そこで筑紫の日向の可愛山陵に葬り申し上げた。』

との一文のみである。

但し、可愛山陵のある薩摩川内市には古くからの言い伝えが多く残されている。

次項ではその足跡を訪ねたい。

次は ( その7、ニニギノミコト終焉の地・薩摩川内 ) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:くにつかみ・高天原の神に対し地上に住んでいる神

その5、 ニニギノミコトの日向巡行

大隅半島道の駅錦江にしきの里から対岸薩摩半島を望む。遠く開聞岳に沈む夕日)

高千穂の峰に降り立ったニニギノミコトを「古事記」では『 痩せて不毛の国から丘続きに良い国を求めて歩かれ吾田の長屋の笠狭の岬にお着きになった。そしてニニギノミコトは「この地は韓国(からくに)に相対し、笠沙の岬をまっすぐ通ってきて、朝日のじかに射す国、夕日の照らす国である。それゆえ、ここは大変良い地だ」と仰せられ、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に千木を高くそびえさせてお住まいになった。』 と記されている。

 

この文章だけでは高千穂の峰から真っすぐに笠狭に移動したように読み取れるが、実はそうでもないらしい。

鹿児島県郷土史には「 ニニギノミコト一行は高千穂を出発し各地を巡幸したのであるが、その道筋は確かにはわからない。歴史家の諸説を総合してみると、都城より穂北、高鍋、都農、細嶋、延岡に至り、更に南に転じて細嶋、都農、赤江を経て志布志に至り、大崎地方から肝属平野に出て古江の浦から錦江湾を渡って薩摩半島に渡られたものと思われる 」と書かれている。

但し巡幸経路の各地を調べてもそれらしい伝承は残っていない。

いろいろ調べている中で鹿児島県鹿屋市の古江に高千穂という名の神社が目に留まった。

この鹿屋市には太平洋戦争末期に特別攻撃隊が飛び立った鹿屋航空基地があり、また神話の関係では、後述するが神武天皇の御両親が眠る《 吾平山上陵(あいらやまのうえのみささぎ) 》がある。

この古江という地名は鹿児島県郷土史の文章にも合致し、高千穂という名もそれらしいので、早速訪ねることにした。

ところがカーナビで走っているがなかなか目的地に着かない。この地区は浜のほうへ集落が密集し山手はあまり人家がない。やっと一軒の家を見つけ庭に出ていた御婦人に道を尋ねた。教えられた道を進み角を左に曲がった。ところが曲がってすぐと聞いていたが、行けども行けども神社がない。

しかたなく曲がり角まで戻って、ひょいとさっきの家のほうを見ると例の御婦人が立っており、50m先から手旗信号のように身体全身を使って、もう一本先を曲がるんだと懸命に教えてくれている。

意味はこちらでもすぐにわかったので、こっちも大きく三度ほど頭を下げ両手でOKを作りお礼を言った。

こちらが違う道を曲がったのでしばらく様子を見ていてくれたんだと感謝と共に、ほっこりし、ハンドルを握る。

曲がってすぐにこんもりとした小さな森が目に付いた。そこが高千穂神社の鎮守の森であった。

( 高千穂神社の鳥居 )

 

( 高千穂神社本殿 )

古江の浜より4,5百メートル離れた丘の上に鎮座する高千穂神社である。小さな社殿であるがどっしりとして歴史を感じるたたずまいである。

御祭神はニニギノミコトであり 教育委員会の由緒説明版には ” 創建、由緒とも伝わっていない。その昔天照大神の孫で高千穂に降臨したニニギノミコトが高千穂の宮から薩摩半島を巡幸した折当地に暫く滞在した跡であるという話が伝わっている ” と書かれている。

毎年7月31日には浜下りのお祭りがある。

ニニギノミコトが古江の浜から笠狭の宮へ船出された故事をしのび、神社から浜に設けた御座所へ御神幸される神事で、前夜には夏越祭が行われる。

( 浜近くに設けられた御座所 )

 

( 古江浜 現在は漁港になっている )

 

古江の浜を出帆したニニギノミコト一行は錦江湾を南下し薩摩半島南端をかすめ、東シナ海に出、笠狭の岬に上陸している。

( 前方遠くに野間半島から突き出た野間岬。少し霞んでいたが素晴らしい景観である。 )

笠沙は鹿児島県南さつま市の西、日本3大砂丘の一つと言われ、47kmにも及ぶ吹上浜の南端に位置している。

上陸地点である笠沙町の郷土誌によると ” 吾田は現在の南さつま市阿多であり当時は薩摩半島全体をさし、その中に笠狭があるというイメージではないか。

また長屋は長屋山に名を残し、笠狭の岬は現在の野間岬、笠狭は南さつま市加世田笠沙である ”と伝えている。

そしてこの野間半島南側にニニギノミコト一行の上陸地と言われる場所がある。

国道226号線・野間半島ドライブコースを黒瀬漁港へ下った波静かな小さな港である。漁船が5、6艘係留されている。

( 一行が上陸したと伝わる野間半島南側の黒瀬海岸 ) 

 

( 上陸地点の石碑、古ぼけて判読が困難 )

石碑には ” 瓊瓊杵尊ニニギノミコト)上陸の地 ”とある。

この野間半島には野間岳といって600m足らずの山があり、8合目付近に野間神社が鎮座している。主祭神ニニギノミコトということで寄っていくことにした。

所が国道226号線から山に入る道がわからない。地図上では片浦漁港から入るようになっていたが、何の標識もない。片浦の派出所を訪ねたが不在である。仕方なくそのまま岬を回り半島の南に出ると小さな標識に野間岳入口とあり細い道が森の奥に通っている。

やれやれと思い乗り込んだのが大間違い、道幅はやっと車1台通れるほどで、あまり車が通った形跡がない。枯れ葉がかなり積もっており、それもしばらく雨が降らないのに湿って光っている。

道路の右は高さ5mほどの崖が続き、左側は、はるか下のほうから小川のせせらぎが聞こえる。スリップするとゲームオーバーである。

右の崖からは時々パラパラと小石が落ちてくる。ソロリそろりと進んだ15分間であったが、1日分の体力を消耗した。

やっとの思いで到着した。その野間神社がこれである。

( 駐車場から野間神社の鳥居 )

( 野間神社拝殿 )

( 神殿 )

以前は頂上に鎮座されていたが度重なる台風被害のため、現在はこの地に鉄筋コンクリート作りで再建されている。

( 教育委員会の由緒書き )

祭神はニニギノミコトの他、妃のコノハナサクヤヒメ、及び3人の子供たちである。

 

話は戻るが、黒瀬海岸に上陸したニニギノミコトは舞敷野(もしきの)に笠狭の宮をおかれた。

(笠沙路の碑。後方の山は野間岳)

 

(笠狭の宮跡。現在は公園として整備されている。)

 

 

( 地区の公民館が設置している説明書き )

説明書きには

『 神話の里・舞敷野(もしくの)

この舞敷野には日本の最初の天皇の祖先ニニギノミコトと妃のコノハナサクヤヒメの宮殿・笠沙の宮(かささのみや)があったと言い伝えられています。

お宮の向かいにある山・竹屋ケ尾(たけやがお)では三人の皇子が生まれ、この三皇子のうち長男の火照命(ホテリノミコト)=海幸彦は阿多隼人一族の祖となり、三男の火遠理命(ホオリノミコト)=山幸彦は日向へ遠征し、その後孫の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は日本の最初の天皇神武天皇(じんむてんのう)になったと言い伝えられています。』と書かれている。

 

(宮跡の向かいにある山、三皇子の生誕の地竹屋ケ尾)

 

( 公園内の笠狭の宮碑 )

(宮跡の前に建てられた《日本発祥の地》と書かれた石碑)

この笠狭の宮に落ち着かれた後、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメと結婚することになる。

次は ( その6 ニニギノミコトの結婚と3皇子の誕生 )