
美々津港の北側「権現山」からの全景

美々津港 1番右の小山が「権現山」右に出れば日向灘、左の橋は国道10号線。
橋の奥西側も大きな入り江になっており、そこから耳川の流れにつながっている。

国道10号西側の入り江。
「美々津は古くから海の交易の拠点として歴史を刻み、町の背後にある遺跡からは、畿内、瀬戸内様式の弥生土器が出土している。
美々津が港町として成立するのは江戸時代初期の頃からで、美々津を経済面から支えていたのは千石船を所有していた備後屋、播磨屋と言った廻船問屋達で、耳川上流で生産された材木や木炭を大阪方面に運び、帰路関西方面の特産物や、美術工芸品を持ち帰ることが多く、文化交流の一面を有していた。そして明治、大正頃には美々津千軒と言われるほどの繁栄を見た。」 日向市観光協会の資料より。

往時を偲ばせる石畳の町家である。美々津千軒の面影を今に残す町並みである。

(国選定保存地区の表示板)

殆どの家には跳ね上げ式の縁台が設けられている。
夏の夕暮れのひと時、縁台を下ろし涼を求めながら話に花が咲いたことだろうか。

(共同井戸)

(江戸時代の高札場(再現))


家々の郵便受けには「起きよ丸」のデザインが入っている。
この「おきよ丸」は西都原古墳群から出土した「船形はにわ」をモデルにしており、(その16)に記載している、宮崎神宮境内の「起きよ丸」をデザイン化したものである。
昭和15年4月政府は「東行巡路漕舟大行軍」を挙行。神武天皇東遷2600年記念として「起きよ丸」を作り進水し。日向の青年150名が漕舟し4月18日美々津港を船出、途中天皇がその昔寄港されたという由緒あるところに寄港しながら、その月の28日に大阪に上陸。御盾を奉持し陸路橿原神宮に奉納した。(宮崎県神社誌より)
さて
神武天皇の東遷ルートは日向灘を北上し、瀬戸内海を東進する計画である。
その為の船が必要である。
神武天皇が東遷の第一歩を美々津に決めたのは、比較的海に近いところに良質の材木があること。
耳川と言う豊富な水量の河川があること。多くの軍船を係留できる港があること等であろう。
神武天皇は美々津の港から西へ3km程、耳川を遡った処の「神立山」から材木を切り出し、耳川を下り美々津の入り江で軍船の建造に掛かった。
その間神武天皇が、かり宿としたのが港の南に位置する現在の「八坂神社」の地である。

(八坂神社鳥居)

小さな社殿である。資料では境内に「神ノ井」や「磐座・いわくら」があると記されていたが、草深く所在不明であった。
そうこうしているうちに兵も整い軍船も出来上がった。いよいよ出帆である。
入り江の対岸「遠見の山」では毎日凧を上げ風の向きや、潮の流れを観察していた。
そして8月2日(旧暦)を出航日と決めた。
所が前日に風が順風となり潮も穏やかになった。急遽出航するのは今だと決まった。
8月1日の夜明け前である。まず寝ている人たちを起さなければならない。
各家や兵舎を「起きよー、おきよー」と叩いて回った。
これが現在も続いている旧暦8月1日の「おきよー祭り」の言われである。
令和7年の「起きよ祭」の様子。
令和7年「おきよー祭り」は9月22日(月)4:30 子供達が立磐神社前の広場に三々五々集まってきた。生徒数は22~23人、及び父兄の皆さん。先生の挨拶の後、立巌神社で4:45から宮司さんのお祓いの後、まだ暗いうちに笹を持った子供たちが各家々を回り「おきよー、おきよー」と笹で雨戸をたたいて回った。

(神社でのお祓いの様子)

元気な声でお「おきよーおきよー」と笹で雨戸をたたいて回っている。

(お祭りの後の記念撮影)そろそろ空が白んでいる。
この後子供たちは学校である。「がんばれー。美々津小学校の子供たち!」である。

この日は各家の前には笹が立ち明かりが点いている。
以上が現在の「おきよー祭」の様子である。
出帆の日に戻る。
見送りの人達は兵たちの食料準備を急いだ。
当初は丸いお結びに小豆餡を入れるように考えていたようだが、なにせ時間がない。米と小豆を一緒に粉にし、丸めて蒸したものにした。これが今でも美々津の名物となっている。「お船出団子」である。

美々津に行かれたらぜひ食して頂き、神武天皇東遷神話に思いを馳せていただきたい。
また早朝の多忙な中、衣服の準備やほころびの修理など、人が着たまま、又立ったまま縫っていたのが「立縫・たてぬい」と言う地域の名前として残っている。

(立縫の里)
こうして慌ただしく神武天皇の東遷部隊は美々津を出帆した。
美々津港の沖合には「七ッバエと一ッ神」と言われている岩礁がある。

岩礁が7ツ固まっている。7ツバエと言われている。

岩礁はひと塊のみである。1ツ神と言われている。

「七ッバエと一ッ神」
右が七ッバエ。灯台が立っている。
左が一ッ神と言われており、一ッの岩礁からなっている。
神武天皇一行はこの2つの岩礁の間を通ってはるばる「まほろばの国」へと旅立って行き2度とこの地には帰ってこなかった。
その為土地の漁師たちは出漁の時、この2つの岩礁の間を今でも通らない。
なぜなら2度と帰ってこれないから。
凧を上げて風の観測をしていた場所の跡には現在《港柱神社》が鎮座している。

(湊柱神社鳥居)

(湊柱神社参道)

(湊柱神社参道)右は崖になっており、下は美々津の入り江である。
(
(湊柱神社社殿)
祭神は速秋津彦命(ハヤアキツヒコノミコト)
創建は定かではない。水戸(みなと)に於いての、厄除けの神とされている。
また神武天皇が出港した場所には《立磐神社》が鎮座している。

(立磐神社鳥居)

(手水舎)

(神武天皇お腰かけの岩の鳥居)

(神武天皇お腰かけの岩)

(二の鳥居)

(古札納所)

(立磐神社社殿)
右上は国道10号線。

(立磐神社神殿)

(拝殿)
由緒は
神武天皇御東遷の際、美々津港よりお船出にあたり航海の安全を祈念されて、この埠頭に海上守護神である底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)の三柱の大神を奉斎したのにちなんで第12代景行天皇の御代に創祀されたと伝えられている。

(立磐神社扁額)

(日本海軍発祥の地碑)


(海軍両爪錨展示)

(両爪錨説明文)

(美々津港渡し場跡の碑)
こうして神武天皇船軍団は美々津港を後にし、日向灘へと漕ぎ出していった。
時に10月5日(日本書紀では)の早朝である。
夏の日の朝は早い。船団は日向の国の沖を北上していく。
右手にはすでに太陽が上がり白波が陽の光にきらめいている。
順調な滑り出しではあったが、その時巨鯨が現れ船団の前方を遮った。
神武天皇はこれを鉾で退治した。そしてこの島を鉾島と名ずけた。
現在の「細島」はこの鉾島が転じたものである。
またこの鉾を収めたと言われているのが、【御鉾神社】である。

(御鉾神社鳥居)
日向市大字細島353に鎮座する御鉾(みほこ)神社
御祭神は速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)、速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)、埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ)である。

(御鉾神社社殿)
この細島には「日向のお伊勢さん」と言われている神社がある。【大御(おおみ)神社】である。

【大御神社】遠景
日知屋海岸の北、伊勢ケ浜の岩礁の上に鎮まる【大御神社】。
この【大御神社】たびたびの津波により、古文書等が流失し、正確な創立年月日は解からない。
言い伝えによると、往古天照大神が皇孫邇邇芸命を日向の国高千穂の峰に天下りさせた時、邇邇芸命は統治まで御游行遊ばされ、この海岸でお休みされたという。そこで後世の人々が、お休みされた場所に祠を建てて、皇大御神を勧請し村の鎮守として崇敬したと伝えている。(宮崎県神社誌より)

(大御神社1の鳥居)

(大御神社境内)

(社務所)

(お札授与所)

(手水舎)

(拝殿・神殿)
神武天皇ご東遷のみぎり、漁民を困らせていた巨鯨を退治されたという御鉾を収められたことから鉾島と呼び、それが現在の細島に転じたと伝えられている。
天皇はこの時伊勢ケ浜から港に入られ、皇大御神を奉斎する【大御神社】に武運長久と航海安全を祈願されたという。(宮崎県神社誌より)

(さざれ石)

(龍神の玉・水中の黒い玉)


(鵜戸神社1の鳥居)
大御神社の鳥居を潜りすぐ左の小道を東に進めば【鵜戸神社】の鳥居がある。

(鵜戸神社に降りる参道・人がやっと離合できる急な階段)

参道の急な階段を降りるとそこは砂浜である。

(鵜戸神社お社)

お社に手を合わせて振りむくと、洞窟に入るまばゆい光が、登り龍の姿を形作っている。

登り龍の光を潜った先は青空の下、光輝く日向灘である。
次は
その19 速吸の瀬戸 - 神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ