(遠くに鳥居が見える。鹿屋市鵜戸山の洞窟に鎮まるウガヤフキアエズノミコトと玉依姫の陵である。)
ウガヤフキアエズノミコトに付いては、生誕の模様と玉依姫との結婚以外、その足跡は「記・紀」の中では何も語られていない
『 ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは姨(おば)の玉依姫を妃に迎えて彦五瀬命、をお生みになった。次に稲飯命。次に三毛入野命。次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)。合わせて四柱の男神をお生みになった。久しくたってヒコナギサウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御された。そこで日向の吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)に葬り申し上げた。』
とある。
これだけではどこで宮を構えたのか、四柱の神が何処で生まれたのか不明である。
ウガヤフキアエズノミコトが何処に宮を設けたかに付いては【日本書紀】には何も書かれていないが、崩御された地は《西洲の宮》とある。
と言うことは、少なくとも晩年は《西洲の宮》に住んでいたことになる。
所がこの《西洲の宮》が何処だかわからない。
現在、歴史学者の中では《西洲の宮》とは「西国にある宮」と言うほどの意味で特定の場所を指しているのではない。と言いうのがおおかたの見解である。
そこで尊の生誕の地である日南市の郷土史を調べて見ると、
《 神道旧時鏡鵜戸山別当隆岳撰(1760年)という書籍に 神代に伝、ウガヤフキアエズノミコト西洲の宮にて崩御、国葬にて日向吾平山上陵に葬る。西洲の宮とは即ち今の鵜戸の窟なり 吾平山とは今の鵜戸山なり 》 と記されている。
続いて 《 明治7年鹿児島県 肝属郡姶良村 大字上名、鵜戸窟が尊の御陵とさだめられた。これは薩摩藩士であった白尾国柱著「神代山陵考」などを裏付けにしたといわれ、政治的な配慮が無きにしもあらずの感がする。》 と書かれている。
幕末から明治にかけて維新を貫徹した薩摩藩の功績は肯定せずにはいられない。
現在鹿児島県肝付町宮下に《桜迫神社》が鎮座している。祭神は神代三代のご夫婦が祀られており、ウガヤフキアエズノミコトの宮・西洲の宮跡と言う伝説がある。
そしてこの桜迫神社の南約10Kmの所(鹿児島県鹿屋市吾平町)にウガヤフキアエズノミコトの陵があり、これが神代三山陵の一つである《吾平山上陵》 である。
神代三山陵は前記しているニニギノミコトの陵である《愛之山陵》、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)の陵である《高屋山上陵》とこの《吾平山上陵》を指している。これは明治7年明治政府によって治定されたもので、ここにも当時の政治的配慮が感じられる。
その結果鵜戸神宮境内の速日峰山上にある前方後円墳の《 吾平山上陵 》は明治29年にウガヤフキアエズノミコトの単なる鵜戸陵墓参考地とされ現在管理は宮内庁が行っている。
ここまで書くと、やはり現地を見たくなる。初秋の一日、車を走らせた。
速日峰への登り口は鵜戸神宮の参道の途中にある。
楼門手前左の小さな門が陵参道の入り口である。
(みささぎ参道入口)
(陵墓参考地の説明書き)
「ここより約350m。自然林の中、青苔を踏んで登る。」と書かれている。
(登り口の鳥居)
案内板には陵まで片道30分と書かれている。
勾配は少し急ではあるが、林に囲まれ涼やかな風が渡り、時間をかけてゆっくり登れば登れないことはなかろうと、新調したトレッキングスティックを握りしめ出発した。
ところがである。
登り始めて10mの所に「立ち入り禁止」の表示が出ていた。
神職の方に事情をお伺いすると「梅雨時の大雨や台風により階段が流れたり樹木が倒れたりと、2年前頃からこのような状態になっている。宮内庁にはお願いしているが、予算の関係もあるのか、何時修復できるかはわからない」とのお話であった。
残念だが陵参拝は次回に譲ることとした。
この鵜戸神宮から北に5~6Kmほどの所にウガヤフキアエズノミコトの妃である玉依姫の御陵がある。
日南の海岸線を少し北上し内陸の方に入った処である。これがその玉依姫の御陵である。
( かなり奥行きがあり、細い参道が続く。)
( 途中の鳥居には「玉依姫陵」と表示されている。)
突き当りに石碑が建っている。此処まで来ると車の音はおろか人の声もしない。初秋の涼やかな風が渡り、思わず深呼吸をする。
この土地の草を牛馬に食わせるとたちまち腹痛を起こすと言われ、土地の人は恐れて近づかないと言われている。
( あまり規模は大きくないが円墳である )
( 石碑には「玉依毘売之碑」)
この古墳も玉依姫の伝説上の陵墓として守られているようだ。
そしてこの古墳を守るように、すぐ近くに鎮座しているのが 玉依姫を祀る《 宮浦神社 》である。
( 正面の鳥居 )
(前日秋の大祭が終わり、今日は神職全員で片付け中である。)
( 拝殿・本殿 )
祭神は玉依姫の命である。
創建ははっきりしていない。社伝では玉依姫の住居の跡と言われている。
話は変わるが、日南市史によるとウガヤフキアエズノミコトは、現在鵜戸神宮の社殿がある鵜戸窟に宮を設けこの地域を治めたと書かれている。
神話の流れからしてこの窟で生まれた以上何年かはここで暮らしていたとは思われるが、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)の崩御後、日向地方の経営にあたっては統治効率や食料確保等の面からも平野部に進出する必要がある。
この点について、いろいろ調べているうちに、宮崎市の佐野原聖地に行き当たった。
それが以下の写真である。
佐野原聖地は宮崎市の北部、佐土原の中心より西に位置している。
宮崎市の中心部、平野部より一段高い台地を成している。民家はすぐ近くに一軒確認できたが、それ以外は見当たらない。
佐野原聖地と表示されている駐車場に車を止め、森の入り口に向かう。
(佐野原聖地の入り口)
(聖地の説明書き)
「ウガヤフキアエズノミコトは玉依姫命をお妃にお迎えになり、この地で佐野尊(サノノミコト・後の神武天皇)がお生まれになった。」と記されている。
聖地周辺の道は一車線の狭い道である。
(奥に見えるのが佐野原神社)
(佐野原神社社殿)
「昭和35年に造営された」と説明文に書かれている。
(聖地佐野原の石碑)
鵜戸神宮の窟で出生したのち、母親豊玉姫の妹、叔母である玉依姫と結婚し、幾度か転居したであろうことは推測できる。そしてこの「佐野原の宮」が【日本書紀】に書かれているウガヤフキアエズノミコトが崩御された「西洲の宮」であるのかもしれない。
最後に宮内庁がウガヤフキアエズノミコトの陵墓と治定している、鹿屋市の「吾平山上陵」をご案内してこの章の終わりとする。
鹿屋市の吾平山上陵の駐車場。この奥が陵の入り口になっている。
(鵜戸窟の説明が書かれている)
(御陵の入り口)
鵜戸窟の中から大量の水が流れ出ている。その流れが吾平川となり陵内を蛇行して流れを作り、そこに橋が架かっている。
これが最初の橋,,鵜戸橋である。鉄の扉がついている。
扉は夜間には閉じられるようだ。
(二番目の橋)
橋の下には清らかな水が流れ、小魚が群れている。秋には両岸の広葉樹が色づき、水面を染める。
(三番目の橋)
参道を歩くだけで清々しく、日々の生活をつかの間忘れてしまいそうな、そんな空間である。
(杉林の参道が続く)
「宮内庁書陵部桃山陵墓監区吾平部事務所」の表札が掲げられている。
(霧が立ち込めるこの奥が鵜戸窟である。)
此処が神武天皇の父君、ウガヤフキアエズノミコト(鳥居の右の大きい祠)と母君タマヨリヒメノミコト(鳥居の左の小さな祠)の御陵である。
入口駐車場に沿って流れる吾平川。この先で肝属川に合流し太平洋に注いでいる。
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