( 薩摩半島最南端 長崎鼻 竜宮神社の境内から撮影 )
早朝の長崎鼻に立った。汐の香りとさわやかな海風が心地よい。白い灯台、青い海と空、天気の良い日にはこの灯台の遥か先に屋久島や硫黄島を望むことができる。
そして此処からヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトの物語が始まる。
( 指宿市の長崎鼻に鎮座する、トヨタマヒメノミコトを祀る竜宮神社。 )
竜宮神社は古来よりこの長崎鼻の断崖の上に、トヨタマヒメノミコトを祭神として鎮座しており、当時は小さな石の祠であった。
その後村人たちが木造の社殿を作ったが、昭和34年の台風により、社殿が倒壊したのを機会にコンクリート製にて建立されている。。現在の社殿は平成24年に老朽化を理由に建て替えられたものである。
( トヨタマヒメノミコトを祀る本殿 )
( 願いの貝塚 )
貝殻に願い事をしこの館に奉納すると竜宮の使者が幸せを届けてくれると、説明版には書かれている。
( 手水舎と鳥居 )
鳥居の先に長崎鼻灯台を望む。
西方には開聞岳を望む。
ニニギノミコトが崩御された後の話である。
兄のホノスソリノミコト(海幸彦)と弟のヒコホホデミノミコト(山幸彦)は薩摩半島を分け合って領有することになったのではないかと思われる。
そしてヒコホホデミノミコトが兄の釣針を紛失したことによって争いになる。
その様子を【 日本書紀 】ではこのように語っている。
『 兄のホノスソリノミコトは海岸地帯で漁を仕事とし、ヒコホホデミノミコトは山岳地帯で狩猟を仕事とした。
” ある時、兄弟二人は相談して「試みに道具を取り換えてみよう」と仰せられ、ついに交換した。
ところがどちらも獲物を得ることがなかった。
兄は後悔して弟の弓矢を返して、自分の釣針を返すよう要求した。
弟はその時すでに兄の釣針を失っていて、探し求める方法がなかった。
そこで別に新しい釣り針を作って兄に与えた。
兄は承知しないでもとの釣針を返すよう責めた。
弟は心を痛めてさっそく自分の太刀を鋳つぶして新しい釣り針に鍛え上げて箕一杯盛りあげて与えた。
兄は怒って「私のもとの釣針でなかったらどんなにたくさんでも受け取らぬ」と言ってますますまた責めたてた。
そのためにヒコホホデミノミコトは心痛されること甚だ深く、海辺に行って嘆き呻吟しておられた。
その時塩土の老翁(しおつちのおきな)に出会った。老翁は訪ねて 「なぜこんな所で悩んでおられるのか」と申し上げた。
ヒコホホデミノミコトは事の一部始終をお話しされた。老翁は話を聞き、さっそく密に編んだ隙間のない籠を作り、ヒコホホデミノミコトをその中にいれて海に流した。するとひとりでに美しい浜に着いた。
ここで籠をすて出歩いて行かれた。するとたちまち海神の宮殿に着いた。
その宮殿は姫垣がきれいに整っており、高楼は美しく輝いていた。門の前には一つの井戸があった。井戸の傍らには一本の神聖な桂の樹があった。枝葉はよく繁茂していた。
ヒコホホデミノミコトはその樹の下を行きつ戻りつしておられた。一人の美人が脇の小門を押し開けて出て来た。そうして井戸までやってきて美しい鋺で水を汲もうとした。
その時、水影を見て振り仰いでミコトを見つけた。驚いて宮殿の中に戻って、父母に「一人の珍しい客人が門前の樹の下にいらっしゃいます」と申し上げた。
そこで父の海神(ワタツミノカミ)は幾重もの畳を敷き設けて、宮殿のなかへミコトを引き入れた。』
これが山幸彦の竜宮行の話である。
指宿市に開聞町というところがある。以前は鹿児島県揖宿郡開聞町であったが平成18年に
指宿市に合併された。この開聞町が合併以前に編纂した開聞町郷土誌にはヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトの出会と結婚,そしてその場所が詳しく記されている。
二人が初めて出会ったと言われる井戸、「玉ノ井」がこれである。
( 指宿市開聞にある玉ノ井 )
トヨタマヒメノミコトが水を汲みに来た井戸である。
( 玉ノ井内部 )
( ヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメとが出会ったと言われる井戸 )
現在は安全のため開口部のすぐ下で塞いでいる。現在でも近在の人がお参りにきている。
( 拝顔・おがんご )
玉ノ井の裏一帯を、ヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトが初めて顔を合わせた所、拝顔、(おがんご)(拝み顔⇒おがみがお⇒おがんご)と言われ、地名として残っている。
また近くを流れる小川は 御返事川(ごへんじがわ)と呼ばれている。
( 御返事川・ごへんじがわ )
ヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトが言葉を交わしたのが、この川のあたりと言われている。川幅2mくらいの小さな川であり、さわさわと清らかな流れの中に小魚が群れている。。
トヨタマヒメノミコトの父ワタツミノカミがヒコホホデミノミコトを饗応した御殿を饗殿といったが、現在京田(きょうでん)という地名で残っている。
( 饗殿があったと言われる跡 )
玉ノ井地区に隣接したこの場所が饗殿の跡といわれ、今でもこの土地一帯を京田(きょうでん)集落と言っている。
そして開聞町郷土誌には
ワタツミノカミは二人の結婚を許し、早速 「入野の婿入り谷」に新居を建ててやり、ここで二人の生活が始まった。
JR指宿枕崎線で有名な駅は ” 日本最南端の駅 ” 西大山駅である。この駅から
西に4駅目が入野駅である。
( 日本最南端の駅 JR西大山駅 )
( 入野駅は開聞岳の裾野、単線のひなびた無人駅である )
開聞町郷土誌には、父ワタツミノカミは結婚が決まった二人のために入野の婿入り谷に宮殿を作り二人の新居としたとある。
一年前にこの婿入り谷が何処か、かなり時間をかけて探したがわからなかった。
今回は博物館に担当の方を訪ね、おおよその位置を聞いたうえで探すことにした。
そしてまずは土地の神社にお参りをしてから出発と思い、鹿児島でも有名な薩摩の国一の宮枚聞神社(ひらききじんじゃ)に向かった。
( 枚聞神社の二の鳥居。広島の厳島神社の鳥居と同じ両部鳥居である )
( ここにも海幸彦、山幸彦の話が書かれている。 )
( 枚聞神社本殿。薩摩地方で1,2を争う神社である。)
主祭神は大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト・大国主命)。本殿の後ろに開聞岳が重なっている。
往古は開聞岳を御神体とした山岳宗教に根ざした神社であったと言われている。
早朝であったため神職の皆さん総出で境内や神殿の掃除の最中であった。宮司さんに少しお話を伺った。
例の婿入り谷の場所についてである。宮司さんの曰く「私どもも気にはなり調べもしたのですが一向に分かりません。探してもしわかれば教えてください」とのお話。
何となく宿題をもらった気分で、入野に向かった。
駅の周辺には人家がまばらにあるが、玄関で声をかけても人の気配はない。谷と言うからには山の方だと、とにかく歩き出す。幸い畑仕事をしているお年寄りがいたので聞いてみると。
「山道を頂上に向かって10分程歩いたところに左に降りる道がある。それを下ったところが昔から「婿入り谷」と言われています」と教えてくれた。
やっと見つけたと思い勇んで登っていくと、お年寄りの言う通り左に下る道があった。
( 頂上へ行く道との分岐点 )
しかしその後が悪かった。10mも進むとその先に道はなく深い森だった。
( ここで道が途切れている。)
倒木や雑草で進むことは不可能である。なんとも残念である。
( 深い森になっている。)
念のために一旦下山し谷の西側を登ってみた。
畑はここで終わっておりこの先は深い森になっている。位置的に考えておそらくこの森が婿入り谷であろうと考えられる。
このほかにもヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトが宮居を構えたと言われるところが近くにある。
その場所に小さな神社が鎮座している。
( 指宿市玉ノ井に鎮座する霧島神社 )
( 霧島神社社殿 )
( 霧島神社由緒書き )
( 霧島神社の南側。開聞岳まで障害物がなく素晴らしい景観である。)
ここ指宿の名物は温泉とこの薩摩富士と言われる開聞岳である。
( 露天風呂「たまてばこ温泉」から撮影。)
( 国道226号からの開聞岳 )
開聞岳はどこから見ても美しい姿である。
さて、前記【日本書紀】の続きである。
『海神は命に来意をお尋ねになった。そこで山幸彦は今までの事情を細かに話された。海神は大小の魚を集め訪ねた所、「近頃赤魚が口の病気があって来ておりません」との事でさっそく赤魚を召して口の中を探ると、果たしてなくなった釣り針が出て来た。』その後山幸彦は豊玉姫を娶られた。
海神の国で3年が過ぎ故郷を思う気持ちが次第に強くなるヒコホホデミノミコトに最後の戦いを挑む兄ホノスソリノミコトが待ち構えている。
次は その10 山幸彦海神の国から帰還する