神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その13 ウガヤフキアエズノミコトと玉依姫

 

(遠くに鳥居が見える。鹿屋市鵜戸山の洞窟に鎮まるウガヤフキアエズノミコトと玉依姫の陵である。)

ウガヤフキアエズノミコトに付いては、生誕の模様と玉依姫との結婚以外、その足跡は「記・紀」の中では何も語られていない

山幸彦崩御の後の【日本書紀】の記述は

『 ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは姨(おば)の玉依姫を妃に迎えて彦五瀬命、をお生みになった。次に稲飯命。次に三毛入野命。次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)。合わせて四柱の男神をお生みになった。久しくたってヒコナギサウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御された。そこで日向の吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)に葬り申し上げた。』

とある。

これだけではどこで宮を構えたのか、四柱の神が何処で生まれたのか不明である。

ウガヤフキアエズノミコトが何処に宮を設けたかに付いては【日本書紀】には何も書かれていないが、崩御された地は《西洲の宮》とある。

と言うことは、少なくとも晩年は《西洲の宮》に住んでいたことになる。

所がこの《西洲の宮》が何処だかわからない。

現在、歴史学者の中では《西洲の宮》とは「西国にある宮」と言うほどの意味で特定の場所を指しているのではない。と言いうのがおおかたの見解である。

そこで尊の生誕の地である日南市の郷土史を調べて見ると、

《 神道旧時鏡鵜戸山別当隆岳撰(1760年)という書籍に 神代に伝、ウガヤフキアエズノミコト西洲の宮にて崩御国葬にて日向吾平山上陵に葬る。西洲の宮とは即ち今の鵜戸の窟なり 吾平山とは今の鵜戸山なり 》 と記されている。

続いて 《 明治7年鹿児島県 肝属郡姶良村 大字上名、鵜戸窟が尊の御陵とさだめられた。これは薩摩藩士であった白尾国柱著「神代山陵考」などを裏付けにしたといわれ、政治的な配慮が無きにしもあらずの感がする。》 と書かれている。

幕末から明治にかけて維新を貫徹した薩摩藩の功績は肯定せずにはいられない。

肝属郡姶良村とは現在の鹿児島県鹿屋市吾平である。

現在鹿児島県肝付町宮下に《桜迫神社》が鎮座している。祭神は神代三代のご夫婦が祀られており、ウガヤフキアエズノミコトの宮・西洲の宮跡と言う伝説がある。

そしてこの桜迫神社の南約10Kmの所(鹿児島県鹿屋市吾平町)にウガヤフキアエズノミコトの陵があり、これが神代三山陵の一つである《吾平山上陵》 である。

神代三山陵は前記しているニニギノミコトの陵である《愛之山陵》、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)の陵である《高屋山上陵》とこの《吾平山上陵》を指している。これは明治7年明治政府によって治定されたもので、ここにも当時の政治的配慮が感じられる。

その結果鵜戸神宮境内の速日峰山上にある前方後円墳の《 吾平山上陵 》は明治29年にウガヤフキアエズノミコトの単なる鵜戸陵墓参考地とされ現在管理は宮内庁が行っている。

ここまで書くと、やはり現地を見たくなる。初秋の一日、車を走らせた。

速日峰への登り口は鵜戸神宮の参道の途中にある。

楼門手前左の小さな門が陵参道の入り口である。

(みささぎ参道入口)

(陵墓参考地の説明書き)

「ここより約350m。自然林の中、青苔を踏んで登る。」と書かれている。

(登り口の鳥居)

案内板には陵まで片道30分と書かれている。

勾配は少し急ではあるが、林に囲まれ涼やかな風が渡り、時間をかけてゆっくり登れば登れないことはなかろうと、新調したトレッキングスティックを握りしめ出発した。

ところがである。

登り始めて10mの所に「立ち入り禁止」の表示が出ていた。

 

神職の方に事情をお伺いすると「梅雨時の大雨や台風により階段が流れたり樹木が倒れたりと、2年前頃からこのような状態になっている。宮内庁にはお願いしているが、予算の関係もあるのか、何時修復できるかはわからない」とのお話であった。
残念だが陵参拝は次回に譲ることとした。

この鵜戸神宮から北に5~6Kmほどの所にウガヤフキアエズノミコトの妃である玉依姫の御陵がある。

日南の海岸線を少し北上し内陸の方に入った処である。これがその玉依姫の御陵である。

玉依姫陵の入り口。石柱には 「傳玉依姫御陵」 とある。)

( かなり奥行きがあり、細い参道が続く。)

( 途中の鳥居には「玉依姫陵」と表示されている。)

突き当りに石碑が建っている。此処まで来ると車の音はおろか人の声もしない。初秋の涼やかな風が渡り、思わず深呼吸をする。

この土地の草を牛馬に食わせるとたちまち腹痛を起こすと言われ、土地の人は恐れて近づかないと言われている。

( あまり規模は大きくないが円墳である )

( 石碑には「玉依毘売之碑」)

この古墳も玉依姫の伝説上の陵墓として守られているようだ。

そしてこの古墳を守るように、すぐ近くに鎮座しているのが 玉依姫を祀る《 宮浦神社 》である。

( 正面の鳥居 )

 

(前日秋の大祭が終わり、今日は神職全員で片付け中である。)

 

( 拝殿・本殿 )

 

祭神は玉依姫の命である。

創建ははっきりしていない。社伝では玉依姫の住居の跡と言われている。

 

話は変わるが、日南市史によるとウガヤフキアエズノミコトは、現在鵜戸神宮の社殿がある鵜戸窟に宮を設けこの地域を治めたと書かれている。

神話の流れからしてこの窟で生まれた以上何年かはここで暮らしていたとは思われるが、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)の崩御後、日向地方の経営にあたっては統治効率や食料確保等の面からも平野部に進出する必要がある。

この点について、いろいろ調べているうちに、宮崎市の佐野原聖地に行き当たった。

それが以下の写真である。

佐野原聖地は宮崎市の北部、佐土原の中心より西に位置している。

宮崎市の中心部、平野部より一段高い台地を成している。民家はすぐ近くに一軒確認できたが、それ以外は見当たらない。

佐野原聖地と表示されている駐車場に車を止め、森の入り口に向かう。

 

 

(佐野原聖地の入り口)

 

(聖地の説明書き)

ウガヤフキアエズノミコトは玉依姫命をお妃にお迎えになり、この地で佐野尊(サノノミコト・後の神武天皇)がお生まれになった。」と記されている。

 

聖地周辺の道は一車線の狭い道である。

 

(奥に見えるのが佐野原神社)

 

(佐野原神社社殿)

「昭和35年に造営された」と説明文に書かれている。

 

(聖地佐野原の石碑)

 

鵜戸神宮の窟で出生したのち、母親豊玉姫の妹、叔母である玉依姫と結婚し、幾度か転居したであろうことは推測できる。そしてこの「佐野原の宮」が【日本書紀】に書かれているウガヤフキアエズノミコトが崩御された「西洲の宮」であるのかもしれない。

 

最後に宮内庁ウガヤフキアエズノミコトの陵墓と治定している、鹿屋市の「吾平山上陵」をご案内してこの章の終わりとする。

 


鹿屋市の吾平山上陵の駐車場。この奥が陵の入り口になっている。

 

(鵜戸窟の説明が書かれている)

 

(御陵の入り口)

 

鵜戸窟の中から大量の水が流れ出ている。その流れが吾平川となり陵内を蛇行して流れを作り、そこに橋が架かっている。

これが最初の橋,,鵜戸橋である。鉄の扉がついている。

 

扉は夜間には閉じられるようだ。

 

 

(二番目の橋)

 

橋の下には清らかな水が流れ、小魚が群れている。秋には両岸の広葉樹が色づき、水面を染める。

 

(三番目の橋)

 

 

 

参道を歩くだけで清々しく、日々の生活をつかの間忘れてしまいそうな、そんな空間である。

(杉林の参道が続く)

 

宮内庁書陵部桃山陵墓監区吾平部事務所」の表札が掲げられている。

 

(霧が立ち込めるこの奥が鵜戸窟である。)

 

 

此処が神武天皇の父君、ウガヤフキアエズノミコト(鳥居の右の大きい祠)と母君タマヨリヒメノミコト(鳥居の左の小さな祠)の御陵である。

 

 

入口駐車場に沿って流れる吾平川。この先で肝属川に合流し太平洋に注いでいる。

 

次は その14 神武天皇


















 

 

 

 

 

 

その12 豊玉姫の出産と夫婦の別れ

 

豊玉姫が出産のため海神の国から上陸した日南の海。そこに鵜戸神宮が鎮座している。)

山幸彦・海幸彦兄弟の争いも収まり、暫くして豊玉姫が出産のため海辺にやってきた。

以下【日本書紀】の記述である。

『 豊玉姫は産屋に入ろうとした時に山幸彦にお願いし「私が子を産むときにどうか、ご覧にならないでください。」と申し上げた。

ところが山幸彦は我慢が出来ずに産屋を覗いてしまった。

豊玉姫はまさに子を産もうとして竜の姿(一説には大鰐)に化身していた。

その事をひどく恥じた豊玉姫は 「このような辱めを受けなければ、これからも海と陸を行き来し夫婦仲睦まじく暮らすことが出来ましたものを」と言って、カヤで子を包み海辺において海神の国へ去っていった。

その子の名前はヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト、初代神武天皇の父である。』

この豊玉姫との別れに際し山幸彦が詠んだ歌である。

  『 沖つ鳥 鴨 薯(つ)く島に 我が率寝(いね)し 

                 妹は忘らじ 世の尽(ことごと)も

  (沖にいる鴨の寄りつく島で共寝した

              あなたの事は忘れはしまい、この世の限り)

その後豊玉姫は我が子の養育を妹の玉依姫に依頼し地上に遣わした。

その時山幸彦へ返歌を奉って

  赤玉の光はありと 人は言へど 君が装(よそい)し 貴くありけり

  (赤玉の光は素晴らしいと人は言うけれども、

         あなたの容姿はそれよりはるかに気高くりっぱでございます。)

と申し上げた。』

豊玉姫が出産し山幸彦家族が暫く居住したと言われる場所に鎮座するのが、宮崎県日南市・日南海岸国定公園に位置する《鵜戸神宮》である。

  ( 鵜戸神宮の駐車場 )

 

駐車場から鳥居を潜り暫く登りの階段が続く。

( 階段の途中にある鵜戸神宮の石碑 )

( トンネルに向かう長い上り階段 )

( トンネル。海からのかなり強い風が吹き抜けている。 )

( トンネルを出てからの下りの階段 )

( 海岸参道からの駐車場 )

海岸参道を通ればこの駐車場の先で階段からの参道と合流する。

( 海岸参道の駐車場の脇にある祈祷所 )

( 神門 )

( 社務所 )

(儀式殿)

社務所・儀式殿が続き、その更に奥に楼門が聳え立っている。

( 楼門 )

 

( 吾平山陵への入り口 )

御祭神ウガヤフキアエズノミコトの御陵と言われているが、鹿児島県鹿屋市にも吾平山陵があり、ここは宮内庁御陵墓参考地となっている。

 

( 千鳥橋 )

この辺りから下りになる。[下り宮」と言われるゆえんである。向こうに休憩所の屋根が見える。

途中の休憩所。おちちあめ湯を頂うことができます。

 

( 玉橋 )

ここから下りの階段が続く。下の洞窟に本殿が鎮まる。

この洞窟が豊玉姫主祭神ウガヤフキアエズノミコトを出産するために産屋を建てた所と言われている。

左の建物が「運玉」授与所。赤い柵の下にあるのが「亀石」。

 

 

中央が「亀石」。この「亀石」は母君豊玉姫が御祭神ウガヤフキアエズノミコトを出産するために乗ってこられた「霊石亀石」と言われています。

この「亀石」の背中、しめ縄の中に枡形の窪みがある。この窪みに男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うと言われている。

試しに筆者もやってみたが、10コ投げて全てが外れた。

( 「運玉」授与所と本殿入口の鳥居。 )

 

洞窟内入ってすぐ右はお札・お守りの授与所となっている。

 

( 鵜戸神宮本殿 )

鵜戸神宮主祭神は前述したが、正式には「アマツヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト」と申し上げる。

また相殿には大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと・天照大神)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)の神々が祀られている。

「ご由緒」

当神宮のご創建は、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第50代桓武天皇延暦元年には天台宗の僧、光喜坊快久が勅命により当山初代別当となり神殿を再興し寺院を建立した。

また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外、本堂には六観音を安置し、一時は西の高野とうたわれ、両部神道の一大道場として盛観を極めた。

また明治維新と共に権現号・寺院を廃して鵜戸神社となり、後に官幣大社鵜戸神宮に昇格された。

現在の本殿は正徳元年(1711年)飫肥藩五代藩主伊東祐実が改築したものを明治23年に大修理を行い、更に昭和42年(1967年)に修理したものである。

平成9年度には屋根や内装などの修理が行われた。

( 本殿裏の洞窟内 )

( 本殿裏の洞窟内 )

なでウサギと言われ「鵜」が卯、兎に転じ、ウサギが神使になった。なでると病気平癒や開運、飛翔などの願いが叶うと言われている。

( 産湯の跡 )

ウガヤフキアエズノミコトが産湯を使った跡と言われている。

 

( お乳岩の案内表示 )

 

( お乳岩 )

母君の豊玉姫が御子の育児のために、左右の乳房を御神窟にくっつけて行かれたと伝わる。現在も絶え間なく玉のような石清水を滴らせて、安産・育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。

この水はお乳水といわれ、この水で作った飴を母乳代わりにお育ちになったと言われている。現在のお乳飴もこのお乳岩から滴り落ちる水で作られている。

また、この鵜戸神宮には海幸彦山幸彦の争いを沈めた玉、海神のワタツミノカミから授けられた「潮干玉、潮満玉」が神宝としてお祀りされている。

 

日本書紀】を読むと、この豊玉姫の出産以降に付いての出来事は何も書かれていない。ただ一行

『 その後久しくたって、彦火火出見尊(山幸彦)は崩御された。高屋山上陵に葬りもうしあげた。』

とのみ記されている。

 

今朝がた宮崎市内の宿を出て、日南市の鵜戸神宮の取材が終わった時は既に日が傾きかけていた。

朝方は海岸沿いに国道448号線を南下してきたが、帰りは内陸の県道を北上し宮崎の宿まで帰る予定で出発した。

所が宮崎市内に入って間もなく、面白いものが目に付いた。

清武町丸目地区にある「丸目の乳岩様」の案内板である。鵜戸神宮のお乳岩を見たばかりである。なんとなく気になるので寄ってみることにした。

宮崎市観光協会の資料によると、

清武町の民話として

『山幸彦と玉依姫が鵜戸の宮から狭野の宮(高原町)に行く途中、丸目山の麓に差し掛かったところ、玉依姫に抱かれていたウガヤフキアエズノミコトが、急にお乳を欲しがって泣き出した。姫はお乳を飲ませようとされたが、お乳が出なかった。ふと見ると ”岩肌に乳房の形をした二つの岩” から白いしずくが落ちていました。玉依姫はそれを掌で受けて口にされると、それはお乳でした。早速竹の筒にその乳水を入れ飲ませますと美味しそうにお飲みになりました。

山幸彦は乳岩の下に社をたて乳岩神社としてお祀りしました。

それ以降村人たちは二本の竹筒に甘酒を入れ神前に ”お乳がたっぷり出ますように” と祈願するようになりました。』

その乳岩様がこちらです。

県道から少し入ったところに小さな駐車場があり、右側に乳岩様の由来書き、左に鳥居がある。

鳥居を潜り大岩を抜けると乳岩様の本殿がある。

乳岩様(乳岩神社)の社殿。

 

寄り道をしたために日が落ちてきた。

ふと東方に目を向けると、威厳に満ちた霊峰高千穂峰が茜色に染まっていた。

知らない土地での夜間運転は少し心もとない。宿へ急ぐことにした。

 

最後に前記した山幸彦が葬られている高屋山上陵を御案内してこの項の終わりとする

高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)

霧島市溝辺町。山幸彦が宮を構えた高千穂宮の西方に位置している。

御陵の入り口。小さな駐車場がある。

駐車場の直ぐ先は長い階段になっている。

西参道の入り口駐車場。10台程駐車できるスペースがある。陵墓迄フラットな参道である。

 

( 西参道 )

( 陵墓入口 )

( 高屋山上陵 )

 

宮内庁の管理事務所。表札に「宮内庁書陵部桃山管区高屋部事務所」と書かれている。

 

次は  その13 ウガヤフキアエズノミコトと玉依姫

 


 






 

 

 

 













 

 

 

 

 

 

 

 

その11 山幸彦を祀る鹿児島神宮

話は大分それたが、その後の山幸彦の話である。

( 石體神社社殿 )

 

山幸彦は兄弟の争いが鎮まり世の中が穏やかになった頃、現霧島市隼人町の地に宮を構え、その地の経営にあたった。その宮の跡が鹿児島神宮の北東300mの所に鎮座する石體(せきたい)神社である。

この石體神社の地が高千穂宮の正殿があった処で、鹿児島神宮の元宮である。

鹿児島神宮和銅元年(708年)現在の地のに遷座し、その後に社殿を作ったのが石體神社である。

そして石體神社の正面には大きな石碑が建っており、碑文に「神代聖蹟高千穂宮跡」と刻まれている。

( 高千穂宮跡を証する石碑 )

豊玉姫のお産に付いては後述するが、石體神社の由緒書きによると

当時のお産は屋外に産屋を作りその中でお産をしたが、豊玉姫の陣痛が早まり、産屋の屋根の鵜の羽や壁のカヤをふきあげる前に出産した。非常に安産であったためこの故事から石體神社は安産の神様として地域の人達に長く崇敬されている。

そしてお生まれになった御子神の名をウガヤフキアエズノミコト(鵜鴎葺不合尊)(神武天皇の父)と申し上げる。

この石體神社の南西すぐ近くに鎮座しているのが鹿児島神宮である。

( 鹿児島神宮社殿 )

当神宮の由緒は前記の通りであるが、歴史的に信頼できる資料によると、醍醐天皇

(897~931)の時に編纂された「延喜式神名帳」に「大隅国桑原郡鹿児島神社」とあり、南九州では最も格式の高い唯一の式内大社(国幣大社)である。

平安時代には八幡神が合祀されたとされ、それ以降正八幡宮大隅八幡宮、国分八幡宮などど称されている。

建久年間(1190~1199)には社領2500余町歩の広さがあり、江戸末期まで千石を領有していた。

( 大鳥居 )

 

 

( 参道入口 )

 

( 参道 )

 

( 奉納木馬 )

( 神馬舎 )

 

( 社務所 )

 

( 本殿正面の勅使殿 )

 



( 本殿の説明書き )

 

( 拝殿、神殿 )

 

( 拝殿内部 )

正面向拝の柱には巻き付くように龍の彫刻が施されている。

( 拝殿の格子天井 )

拝殿の壁や天井には花や野菜の絵が極彩色にて描かれており、これは薩摩藩のお抱え絵師木村探元の筆と伝えられている。

鹿児島神宮の祭礼の中で全国的に有名なものは 「 鈴かけウマ踊り 」と言われる初午祭である。

御神馬の鈴かけ馬を先頭に多くの踊り手が太鼓や三味線の音に合わせて踊りを奉納する特殊神事があるが、

ここでは5月に斎行されるお田植祭の風景を紹介しておく。

( 鹿児島神宮神田全景 )

 

( 神事祭壇風景 )

テント中央は宮内の田の神像。

( 教育委員会による田の神様の説明書き )

 

( 宮司、田の神様、神職の入場 )

 

( 宮内の子供たちによる早男早乙女の入場 )

 

( 田の神様の前での神事 )

 

( 田の神舞の奉納 )

 

( 田の神による鍬入れの儀 )

 

( お田植風景 )

 

( お祭りの後 )

“ 今年も豊作になりますように ” 祈りをこめてのお田植祭も無事終了。

 

次は ( その12 豊玉姫の出産と夫婦の別れ 

 

 









 











 

 

その10 山幸彦、海神の国から帰還する。

( 山幸彦が海神の国から帰還したと言われている宮崎県青島海岸 )

山幸彦が海神の国へ来て3年がたとうとしている。

日本書紀】では山幸彦の様子を次のように綴っている。

神の国は楽しい所ではあるが、やはり望郷の念があり、時に大きなため息をついた。それを聞いた豊玉姫は父に対し、「おそらく故郷を思い出しているのでしょう」と話した。海神は自分の部屋に山幸彦を招き入れ、「天孫がもし故郷に帰りたく思うのであれば、私が送りましょう」と申し上げた。そして先に探し当てていた釣り針を渡して「この釣り針を兄上に渡すときにひそかにこの釣り針に対して ” 『貧針(ましち)』”と仰せられてその後でお渡しなさい、」と申し上げた。また潮満玉(しおみつ玉)と潮涸玉(しおふる玉)とを差し上げて、「潮満玉を水に浸せば潮がたちまち満ちてきて、それで兄上を溺れさせなさい。もし兄上が謝ったなら潮涸玉を水に浸すと潮は自然と引くでしょう。そしてそこで兄上を助けてあげなさい。そうすれば兄上も降伏するでしょう。」と申し上げた。

又山幸彦が海神の国を去るに際して豊玉姫がやってきて

「私はもう身ごもっています。出産も間近です。私は風波が激しい日を選んで海辺に出てまいりましょう。どうかわたしのために産屋を作ってお待ちください。」

と申し上げた。

と記されている。

この山幸彦の帰還の舞台が宮崎市の青島海岸である。

 

( 宮崎市の青島、島の右遠くに青島神社の鳥居が見える。)

日南海岸国定公園に位置するこの青島は、周囲1,5Km程。この小さな島には樹齢300年以上のビロウやハマカズラなど特別天然記念物に指定されている亜熱帯性植物が生い茂っている。

また青島は800万年~1000万年前の地層が侵食されてできた波状岩で囲まれており、これが洗濯板のように見えるところから、「鬼の洗濯板」(天然記念物)と呼ばれ親しまれている。(青島ビーチセンターパンフレットより)

この青島であるが、昔から霊地として一般の入島は許されず、藩の島奉行と神職だけが入島し一般の入島は旧暦3月16日の島開祭から島止祭(同月末日)までのみ許されていた。

その後元文2年(1737年)当時の宮司長友肥後が一般の参拝者にも常に入島を許されるように藩主に願い出て、許可され以後入島が自由になった。

そしてこの青島に鎮座しているのが山幸彦(ヒコホホデミノミコト)、豊玉姫をお祀りする青島神社である。

 

( 青島神社鳥居 )

 

( 参道 )

 

( 手水舎 )

 

( 青島神社社殿 )

 

( 拝殿内部 )

 

( 元宮へ行く参道に設けられた絵馬かけ )

 

( 元宮 )

 

青島神社の元宮で往古は小さな祠であったようだ。この地から弥生時代の土器や獣の骨などが出土している。

( 元宮の社の奥にある「天の平瓮投げ」(ひらかなげ) )

径7~8㎝の素焼きの小皿を投げ入れることで心願成就とし、小皿が割れると開運厄払になると言われている。平瓮(ひらか)とは土器の小皿の事である。

鬱蒼とした南国の樹木に覆われたこの島は全てが青島神社の境内地であり、一角には平成12年にオープンした「日向神話館」がある。館内には30体の蝋人形と12の場面で神話の物語を再現している。

 

さて、山幸彦は海神の国から帰還したのちこの青島に宮居を設け住んだとされ、この神社はその宮居の跡と言われている。

山幸彦が帰還した時には、にわかの帰還であったため村の人達は衣服を着る暇がなく真っ裸で海岸にお迎えに出た。

この故事により昔は夜半から起きだした若い男女が夜を徹して真っ裸で神社に参拝しており、沿道から神社境内までこれらの男女と参拝者で大いに混雑したと言われている。

現在は「裸参り」として毎年成人の日に寒風をついて氏子青年や信者が社前の海水に浴して静かに祈願する形に変わっている。

 

帰還後の兄海幸彦との関係であるが、『貧鉤(ましち)』と呪いをかけられた釣り針を渡された海幸彦は次第に貧しくなり心も荒んできて、ついには山幸彦に戦いを挑んできた。

山幸彦は海神の教えに従い『潮満玉』『潮涸玉』で海幸彦を苦しめた。海幸彦は自らの非を認め「今後、私はあなたの俳優*1(わざおぎ)の民となりましょう。どうかお助け下さい」と申しあげた。この海幸彦(ホノスソリノミコト)は吾田君小橋(アタノキミコハシ・隼人)の祖先である。

この海幸彦(ホノスソリノミコト)を主祭神としてお祀りしているのが、日南市北郷に鎮座する潮嶽神社である。

(日南市北郷県道28号、ひむか神話街道沿いに鎮座する潮嶽神社の鳥居)

 

 

(潮嶽神社拝殿)

創立の年月は詳らかではないが、正保年間(1657)飫肥藩主伊東祐久が造営し、現在の社殿は天保3年(1832)同伊東祐相が造営したものである。

 

(本殿、神殿)

祭神はニニギノミコトコノハナサクヤヒメの三皇子で、主祭神は隼人の祖と言われる、ホスソリノミコト(海幸彦)他ヒコホホデミノミコト(山幸彦)、ホアカリノミコトである。

 

 

 

(拝殿内部)

 

(如何にも時を感じさせる狛犬である)

潮嶽神社の由緒によると、山幸彦(ヒコホホデミノミコト)との戦いに敗れた兄の海幸彦(ホノスソリノミコト)が巌船に乗り流れ着いたのが当地だという伝説があり、この地に宮居を構えこの土地を治めた跡が潮嶽神社と言われている。

多くの神社の中で海幸彦(ホノスソリノミコト)を主祭神としてお祀りしているのはこの潮嶽神社のみである。

またこの土地には古くからの風習として縫い針の貸し借りを禁じている。

これは海幸彦と山幸彦が釣り針がもとで争ったことに起因していると言われている。

また子供が生まれ初宮参りの時にこの神社の宮司は赤ちゃんの額に紅で「犬」と書く。兄弟の争いに敗れた海幸彦は、弟山幸彦の許しを請うために

赤土を掌に塗りそれを顔に塗って弟に「私はこのように体を汚した。永久にあなたの俳優となりましょう」と申し上げた。そして足を挙げて踏み歩き、溺れ苦しむさまを真似した。

と【日本書紀】には記す。

1300年前に書かれた【日本書紀】の記述が今に生きていることはなんとも感慨深いものがある。

それにしてもこの兄弟の争いは、弟の山幸彦が兄の釣針を失くしたことが原因である。

兄がこの様な立場になるのはなんとも気の毒な話ではある。

話は変わるが、『潮満玉』『潮涸玉』のその後の話である。

もちろん【日本書紀】にはこの事について何も綴られていないが、先日宮崎県神社誌を読んでいると、興味深い神社を発見した。

それがこの鹿野田神社である。

( 鹿野田神社社殿 )

 

宮崎県西都市に鎮座するこの神社の創建は詳しくは解からない。

享保11年(1726年)社殿を再興した時の当時の棟札から弘安年間(1278~88年)以前より勧請された古社であることが推考されている。

御祭神は兄弟の戦いに勝ったヒコホホデミノミコトである。

【日向地誌】によれば

境内に《 潮井 》があり海岸より15km程離れているにも関わらず海潮の干満に合わせて水面が上下し、大潮の時は井戸より溢れ出て地上に氾濫する。その味は海潮と少しも異ならず、奇なりといへり

と書かれている。

 

( 鹿野田神社二の鳥居。左の建屋は手前に手水舎、奥が潮井。 

 

( 左手水舎、右潮井の建屋 )

潮井建屋の内部はこのようになっている。

( 井戸はきれいに管理されていて、ひしゃくも準備されている。)

 

(御神水への志が書かれている)

 

( 井戸の横の小さな祠は豊玉姫を祀る潮神社 )

 

( 満潮の時には横の道路迄潮が溢れ出す )

当然の事であるが筆者も飲ませていただいた。

海の潮より少し塩味が薄いような感じではあるが、まろやかで美味しいと感じる味である。

通りかかったお年寄りに話を伺った。

「この集落はもとは10軒ほどあったが、若い人が出て行って今は5軒になっている。宮司さんは5年程前亡くなられて、今は遠くの神社の宮司さんがお祀りしている。日頃の掃除など管理は私ら年寄りが行っている。私らの小さいころはこの神社の境内が遊び場所だった。この潮井の冷水は飲んだり料理に使ったり、夏場あせもが出来た時など汲んで帰り風呂に沸かせて入るとすぐに治る。」との話である。

海からの距離を考えればなんとも不思議ではあるが、ロマンあふれる話ではある。

 

 

次は ( その11 山幸彦を祀る鹿児島神宮 )

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

*1:わざおぎとは滑稽な所作をして神や人を楽しませる人の事。実際には祭祀に於ける犬の吠え声や隼人舞等歌舞の人達と考えられる。

その9, 山幸彦(ヒコホホデミノミコト)   兄海幸彦(ホノスソリノミコト)との争いとトヨタマヒメとの結婚

( 薩摩半島最南端 長崎鼻  竜宮神社の境内から撮影 )

早朝の長崎鼻に立った。汐の香りとさわやかな海風が心地よい。白い灯台、青い海と空、天気の良い日にはこの灯台の遥か先に屋久島や硫黄島を望むことができる。

そして此処からヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトの物語が始まる。

( 指宿市長崎鼻に鎮座する、トヨタマヒメノミコトを祀る竜宮神社。 )

竜宮神社は古来よりこの長崎鼻の断崖の上に、トヨタマヒメノミコトを祭神として鎮座しており、当時は小さな石の祠であった。

その後村人たちが木造の社殿を作ったが、昭和34年の台風により、社殿が倒壊したのを機会にコンクリート製にて建立されている。。現在の社殿は平成24年に老朽化を理由に建て替えられたものである。

( トヨタマヒメノミコトを祀る本殿 )

 

( 願いの貝塚 )

貝殻に願い事をしこの館に奉納すると竜宮の使者が幸せを届けてくれると、説明版には書かれている。

 

( 手水舎と鳥居 )

鳥居の先に長崎鼻灯台を望む。

 

西方には開聞岳を望む。

ニニギノミコト崩御された後の話である。

兄のホノスソリノミコト(海幸彦)と弟のヒコホホデミノミコト(山幸彦)は薩摩半島を分け合って領有することになったのではないかと思われる。

そしてヒコホホデミノミコトが兄の釣針を紛失したことによって争いになる。

その様子を【 日本書紀 】ではこのように語っている。

『 兄のホノスソリノミコトは海岸地帯で漁を仕事とし、ヒコホホデミノミコトは山岳地帯で狩猟を仕事とした。

” ある時、兄弟二人は相談して「試みに道具を取り換えてみよう」と仰せられ、ついに交換した。

ところがどちらも獲物を得ることがなかった。

兄は後悔して弟の弓矢を返して、自分の釣針を返すよう要求した。

弟はその時すでに兄の釣針を失っていて、探し求める方法がなかった。

そこで別に新しい釣り針を作って兄に与えた。

兄は承知しないでもとの釣針を返すよう責めた。

弟は心を痛めてさっそく自分の太刀を鋳つぶして新しい釣り針に鍛え上げて箕一杯盛りあげて与えた。

兄は怒って「私のもとの釣針でなかったらどんなにたくさんでも受け取らぬ」と言ってますますまた責めたてた。

そのためにヒコホホデミノミコトは心痛されること甚だ深く、海辺に行って嘆き呻吟しておられた。

その時塩土の老翁(しおつちのおきな)に出会った。老翁は訪ねて 「なぜこんな所で悩んでおられるのか」と申し上げた。

ヒコホホデミノミコトは事の一部始終をお話しされた。老翁は話を聞き、さっそく密に編んだ隙間のない籠を作り、ヒコホホデミノミコトをその中にいれて海に流した。するとひとりでに美しい浜に着いた。

ここで籠をすて出歩いて行かれた。するとたちまち海神の宮殿に着いた。

その宮殿は姫垣がきれいに整っており、高楼は美しく輝いていた。門の前には一つの井戸があった。井戸の傍らには一本の神聖な桂の樹があった。枝葉はよく繁茂していた。

ヒコホホデミノミコトはその樹の下を行きつ戻りつしておられた。一人の美人が脇の小門を押し開けて出て来た。そうして井戸までやってきて美しい鋺で水を汲もうとした。

その時、水影を見て振り仰いでミコトを見つけた。驚いて宮殿の中に戻って、父母に「一人の珍しい客人が門前の樹の下にいらっしゃいます」と申し上げた。

そこで父の海神(ワタツミノカミ)は幾重もの畳を敷き設けて、宮殿のなかへミコトを引き入れた。』

これが山幸彦の竜宮行の話である。

 

指宿市に開聞町というところがある。以前は鹿児島県揖宿郡開聞町であったが平成18年に

指宿市に合併された。この開聞町が合併以前に編纂した開聞町郷土誌にはヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトの出会と結婚,そしてその場所が詳しく記されている。

 

二人が初めて出会ったと言われる井戸、「玉ノ井」がこれである。

( 指宿市開聞にある玉ノ井 )

トヨタマヒメノミコトが水を汲みに来た井戸である。

( 玉ノ井内部 )

( ヒコホホデミノミコトトヨタマヒメとが出会ったと言われる井戸 )

現在は安全のため開口部のすぐ下で塞いでいる。現在でも近在の人がお参りにきている。

( 拝顔・おがんご )

玉ノ井の裏一帯を、ヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトが初めて顔を合わせた所、拝顔、(おがんご)(拝み顔⇒おがみがお⇒おがんご)と言われ、地名として残っている。

また近くを流れる小川は 御返事川(ごへんじがわ)と呼ばれている。

( 御返事川・ごへんじがわ )

ヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトが言葉を交わしたのが、この川のあたりと言われている。川幅2mくらいの小さな川であり、さわさわと清らかな流れの中に小魚が群れている。。

トヨタマヒメノミコトの父ワタツミノカミがヒコホホデミノミコトを饗応した御殿を饗殿といったが、現在京田(きょうでん)という地名で残っている。

( 饗殿があったと言われる跡 )

玉ノ井地区に隣接したこの場所が饗殿の跡といわれ、今でもこの土地一帯を京田(きょうでん)集落と言っている。

そして開聞町郷土誌には

タツミノカミは二人の結婚を許し、早速 「入野の婿入り谷」に新居を建ててやり、ここで二人の生活が始まった。

JR指宿枕崎線で有名な駅は ” 日本最南端の駅 ” 西大山駅である。この駅から

西に4駅目が入野駅である。

( 日本最南端の駅 JR西大山駅 )

 

( 入野駅は開聞岳の裾野、単線のひなびた無人駅である )

開聞町郷土誌には、父ワタツミノカミは結婚が決まった二人のために入野の婿入り谷に宮殿を作り二人の新居としたとある。

一年前にこの婿入り谷が何処か、かなり時間をかけて探したがわからなかった。

今回は博物館に担当の方を訪ね、おおよその位置を聞いたうえで探すことにした。

そしてまずは土地の神社にお参りをしてから出発と思い、鹿児島でも有名な薩摩の国一の宮枚聞神社(ひらききじんじゃ)に向かった。

( 枚聞神社の二の鳥居。広島の厳島神社の鳥居と同じ両部鳥居である ) 

( ここにも海幸彦、山幸彦の話が書かれている。 ) 

( 枚聞神社本殿。薩摩地方で1,2を争う神社である。)

主祭神は大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト・大国主命)。本殿の後ろに開聞岳が重なっている。

往古は開聞岳御神体とした山岳宗教に根ざした神社であったと言われている。

早朝であったため神職の皆さん総出で境内や神殿の掃除の最中であった。宮司さんに少しお話を伺った。

例の婿入り谷の場所についてである。宮司さんの曰く「私どもも気にはなり調べもしたのですが一向に分かりません。探してもしわかれば教えてください」とのお話。

何となく宿題をもらった気分で、入野に向かった。

駅の周辺には人家がまばらにあるが、玄関で声をかけても人の気配はない。谷と言うからには山の方だと、とにかく歩き出す。幸い畑仕事をしているお年寄りがいたので聞いてみると。

「山道を頂上に向かって10分程歩いたところに左に降りる道がある。それを下ったところが昔から「婿入り谷」と言われています」と教えてくれた。

やっと見つけたと思い勇んで登っていくと、お年寄りの言う通り左に下る道があった。

( 頂上へ行く道との分岐点 )

しかしその後が悪かった。10mも進むとその先に道はなく深い森だった。

( ここで道が途切れている。)

倒木や雑草で進むことは不可能である。なんとも残念である。

( 深い森になっている。)

念のために一旦下山し谷の西側を登ってみた。

畑はここで終わっておりこの先は深い森になっている。位置的に考えておそらくこの森が婿入り谷であろうと考えられる。

このほかにもヒコホホデミノミコトトヨタマヒメノミコトが宮居を構えたと言われるところが近くにある。

その場所に小さな神社が鎮座している。

( 指宿市玉ノ井に鎮座する霧島神社 )

 

( 霧島神社社殿 )

 

( 霧島神社由緒書き )

 

( 霧島神社の南側。開聞岳まで障害物がなく素晴らしい景観である。)

ここ指宿の名物は温泉とこの薩摩富士と言われる開聞岳である。

( 露天風呂「たまてばこ温泉」から撮影。)

( 国道226号からの開聞岳 )

開聞岳はどこから見ても美しい姿である。

 

さて、前記【日本書紀】の続きである。

『海神は命に来意をお尋ねになった。そこで山幸彦は今までの事情を細かに話された。海神は大小の魚を集め訪ねた所、「近頃赤魚が口の病気があって来ておりません」との事でさっそく赤魚を召して口の中を探ると、果たしてなくなった釣り針が出て来た。』その後山幸彦は豊玉姫を娶られた。

神の国で3年が過ぎ故郷を思う気持ちが次第に強くなるヒコホホデミノミコトに最後の戦いを挑む兄ホノスソリノミコトが待ち構えている。

次は  その10 山幸彦海神の国から帰還する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その8、ニニギノミコトを祀る神亀山 新田神社

( 新田神社本殿 )

新田神社の参道は、神亀山から真っすぐに南にのび、川内川の堤につきあたる。

江戸時代まではここに船着き場があり、川から直接参道に入れたようである。参道入り口には大きな楼門があった.(三国名勝図絵より)。

楼門をくぐるとすぐに一の鳥居が建っている。

( 新田神社 現在の一の鳥居. 川内川河畔より神亀山方向 )

川内川のすぐ傍に立つ一の鳥居。此処から直線の表参道が二の鳥居まで続き、参道の両側は全て桜の木で埋められ4月には 「 新田八幡さくら祭 」が行われている。

およそ1km程続く桜参道。

 

( 二の鳥居 )

県道44号線をまたいで二の鳥居があり、その向こうに降来橋が見え、その先は神亀山である。

 

( 新旧の降来橋 )

鳥居側の大きな石橋は比較的新しく区画整理の時にでも作られた橋のようだが、手前神社側の橋は古くからあるものを、明治25年にかけ替えられた立派な太鼓橋である。

「三国名勝図絵」の八幡新田神社の項には「鎌倉時代中期降来橋に於いて舞楽あり、桟敷53軒見物人3万人云々」とあり、この頃から橋の存在を確認でき、神社の盛大な勢いを感じさせられる記録である。

橋の下には幅4m位の銀杏木川が流れている。

水量はあまり多くはないが、ゆったりとした流れの中、川底の小石が陽の光に輝き、清らかな水中には小魚が群れを成している。

振り返って神社側を見ると、まず長い階段が目に付く。

まず約110段の階段がある。

 

東側の東門守神社 豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)をお祭りしている。

西側の西門守神社 祭神は櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)で両方とも御門守護の神である。

この階段を登り詰めると、ちょうど神亀山の中腹にあたり、広場になっている。

( 中腹の広場。右手には頂上への階段がある )

 

中腹左手には小さな社が並んでいる。

右から 高良神社・祭神天鈿女命(アメノウズメノミコト・ニニギノミコトの降臨時御伴の神) 中央神社・祭神大山祇神(オオヤマツミノカミ、山の神、コノハナサクヤヒメの父神) 早風神社・祭神級長津彦神(シナガツヒコノカミ、風の神)。

この祠の前には古い礎石が残されている。

 

実は新田神社は往古この中腹に鎮座していた。ところが高倉天皇の承安3年(1173年)正殿以下全てが火災により焼失したため、安元2年(1175年)に頂上に遷座した。

これはその当時の礎石の一つである。

 

この中腹の広場から頂上へ登る階段がある。

 

これが広場から頂上に向かう210段の階段である。遥か先に神社の建物がかすかに見える。

( ご神木であるオオクス )

高さ約20m、幹回り約10m、樹齢は約650年~800年と言われている。

このクスノキには地上2mの所に大穴牟遅神(オオナム千ノカミ)(オオクニヌシノミコトの別名)の像が彫られている。

かなり時間をかけて探してみたが、その像がはっきりとはわからない。

400年の時の流れを感じる。

これは島津家の家老、阿多長寿院盛淳が1600年関ヶ原の戦いに際し彫ったものとされている。

盛淳は島津軍退却の折、主君義弘の身代わりとなって討ち死している。

そして頂上にある新田神社である。

( 新田神社 社殿正面 )

 

新田神社は古くから皇室の崇敬も厚く薩摩一の宮とされている。

創建は神亀2年など諸説ありはっきりしたことはわからない。社殿は本殿から南に幣殿、拝殿、舞殿、勅使殿と一直線に並んでいる。本殿両側には摂社を配し全体を回廊で繋いでいる。祭神はアマテラスオオミカミアメノオシホミミノミコト(ニニギノミコトの父神)、ニニギノミコトの3柱の神である。

( 一番奥の本殿 )

 

( 東回廊 この奥に若宮四所宮がある。)

四所宮にはヒコホホデミノミコトニニギノミコトの三男・山幸彦)、トヨタマヒメノミコト(ヒコホホデミノミコトの妃)、ウガヤフキアエズノミコト(ヒコホホデミノミコトの長男)、タマヨリヒメノミコト(ウガヤフキアエズノミコトの妃)の4柱の神が祀られている。

( 西回廊 )

この奥は摂社武内宮である

勅使殿東は御祈願受付所、お守り授与所がある。

( 絵馬、おみくじ納所 )

 

( 東の狛犬 )

 

( 西の狛犬 )

 

双方ともいかにも古びた、なんとなくほっこりする狛犬である。

( 新田神社の神田 )

6月のはじめ梅雨入りの前に 「 お田植祭 」 を10月には 「 抜穂祭 」 が斎行される。収穫されたコメは神社の神事に供されている。

新田神社で特筆すべきことは、収蔵文化財の多さである。

中でも三面の銅鏡、7巻の古文書は国指定の重要文化財であり、その他県・市指定の文化財が多数収蔵されている。

毎年8月にはこれら文化財の 「 御宝物虫干祭 」 が斎行されている。

川内川の豊富な水量に支えられ今年も豊作である。稲刈りもほぼ終わり、今日も一日が終わろうとしている。

次は 

(     その9 山幸彦(ヒコホホデミノミコト)  兄海幸彦(ホスセリノミコト)との争いとトヨタマヒメとの結婚 )   

 

 

 

 

 

 

 

その7、ニニギノミコト終焉の地 薩摩川内

(  薩摩川内市を東西に流れる川内川。滔滔とした流れは左方10kmほどで東シナ海に注ぐ )

熊本県あさぎり町の白髪岳をその源とし、宮崎県、鹿児島県を通り、東シナ海に注ぐ。

九州では筑後川に次ぐ137kmの第2の長流である。

 

ニニギノミコト一家は海上吹上浜の沖を北上、市来、羽島崎を経て、この川内川河口に着いた。

この薩摩川内という地には、奈良時代国府が置かれた。

その理由として、この肥沃な沖積平野が人間の食生活を支える海の幸、山の幸をもたらしていること、またこの地が古くから水陸交通網の要衝を成していたこと、川内川と周囲の山々が天然の要塞になっていたことなどが考えられる。

ニニギノミコト天下り、日向各地を遠征し熊襲・隼人を従えこの地に日向王朝の礎を築いた。そしてその子ヒコホホデミノミコや孫のウガヤフキアエズノミコトがそれを発展させ、ひ孫の神武天皇までつながっていったというのも、なるほどと頷けるものがある。

河口の近くに新田神社の末社である船間島神社がある。ニニギノミコト一行が北上する船の水先案内者であり、この地で病死した十郎太夫を祭神としている。

( 船間島神社の案内板 )

 

( 船間神社への参道 )

 

( 船間神社社殿 )

また船間島から東に1Kmほどの所に月屋山がある。

 

( 月屋山全景 )

ニニギノミコトはこの山に掛かった月を愛でられて、月見山と名ずけられた。のち月夜山となり、現在月屋山と言われている。

ニニギノミコト一行は川内川を遡り初めに宮居を置かれたのが新田神社の対岸、宮里の地である。

( 川内川畔宮里地区 )

この宮里の地には新田神社の前身の社があったと伝えられている。また宮居跡と言われる付近からは石器や鉄の直刀が出土しており、弥生時代から古墳時代にかけて、いわゆる古代人が住んでいたと言われている。

その宮居跡と言われているのがこちら宮里地区日吉である。

現在この地には市内の区画整理で移動を余儀なくされた田の神が祀られている。

この後宮居は現在の都町に移転し、その宮居跡に都八幡神社が鎮座している。

 

( 都八幡神社 )

市中心部から南へ5km程、住宅地の中の坂道を少し登ったところが、かなり広い平地になっている。

2021年秋に参拝した時には台風被害で躯体を残しほとんどが損傷しブルーシートで覆われていた。今回2年後に訪問したが、やはり同じ状態であった。

ニニギノミコトの宮はこの後宮ノ原から屋形原へと移り最後は神亀山に宮居を構え、ここで最期を迎えることとなる。

( 屋形が原のニニギノミコト宮居跡 )

説明書きに( 神代聖蹟ニニギノミコト寓居址 )と記されている。

昭和15年(1940年)が初代神武天皇即位2600年にあたり、これを日本中で祝う奉祝行事が行われた。その一環として各地の神武天皇聖蹟調査が行われた。

その結果文部省が妥当だと判断したものについて次々と石碑が建てられていった。時は日中戦争の真っただ中である。これも国威発揚に寄与したと思われる。

このブログで紹介している旧跡はほとんどがその当時のものである。

 

( 市街地の中にこんもりと盛り上がった山である。正面の山が亀の甲羅部分にあたり、左の小さな山が頭と言われ亀に似ているところから、神亀山と言われている。)

ニニギノミコトが最後に宮居を置かれたのはこの神亀山と言われており、崩御後にこの頂上に葬られた。

神亀山の長い階段を登ると新田神社にたどり着く。その神社の前を通り右手の小さな階段を降りると宮内庁の管理事務所があり、その奥にニニギノミコトの可愛山陵(えのみささぎ)がある。

( 宮内庁の管理事務所 )

 

( ニニギノミコトの可愛山陵 )

可愛山陵(えのみささぎ)は、高屋山上陵(たかやさんじょうりょう、山幸彦・霧島市)、吾平山上陵(あいらさんじょうりょう、ウガヤフキアエズノミコト・鹿屋市)と共に神代三山陵と呼ばれてる。

 

日本書紀】に『 しばらくたってニニギノミコト崩御された。そこで筑紫の日向の可愛山陵に葬り申し上げた。』とある。

但し他にも宮崎県の俵野古墳や同県西都市の雄狭穂塚をこれに充てる説もあったが、明治7年7月御裁可を経てこの地に勅定されている。

またこの神亀山にはニニギノミコトの妃コノハナサクヤヒメと長子、天火照命(アメノホデリノミコト)の御陵がある。

( コノハナサクヤヒメ陵の入り口 )

亀の頭の部分の森は全体がフェンスに囲まれており南北2か所に扉が点いている。中に入るとかなり雑草が生えているが参道の小道はきれいに手入れされている。

( 端陵と言われているコノハナサクヤヒメ陵の鳥居 )

 

( コノハナサクヤヒメの端陵 )

端陵(はしのみささぎ)と言われ、神亀山の頭の部分の頂上に祀られているコノハナサクヤヒメの御陵である。

小さな祠が建てられており、この中には神鏡1面が治められている。土地の人達からは「御前様の陵」として親しまれ、鬱蒼とした森の中ではあるが、ここだけは光がさしている。



( 「端陵」の説明文 )

また神亀山の首の部分には、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメの長子天火照命の御陵がある。

( 「中陵」の入り口に立つ鳥居 )

火照命の御陵と言われている「中陵」(なかのみささぎ)は「端陵」と同じく深い森の中である。

( 「中陵」 )

わずかに薄日の射す祠を覆うように、緑の木々に囲まれ鳥のさえずりもなく、ただ静かである。

この「中陵」については江戸時代(1806年)祠の4隅に植えられていた松の木の1本が枯れたので、土地の人が撤去するため根を掘り起こしたところ石棺に掘りあたった。

中を見ようと蓋を少しずらすと隙間から白気が噴出し、内部は青赤い色に見えたので人達は恐れをなして、掘るのをやめてもとに戻した。との話が伝わっている。

 

( 「中陵」の説明文 )

この両陵とも「端陵神社・中陵神社」として新田神社の末社である。

 

薩摩川内は遺跡の多い土地である。

神亀山から3Kmほど北西に行ったところの五代町に冠山という山がある。

高さ20mほどのその山の麓に新田神社の末社である川合陵神社がある。

( 川合陵神社のへの案内標識 ) 

ここは【日本書紀】でいうニニギノミコトの第三子(または兄)天火明命の陵と伝えられ、土地の人は「陵殿」(みささぎどん)と呼んでいる。

( 川合陵神社鳥居 )

( 川合陵神社社殿 )

( 川合陵神社由緒書 )

ニニギノミコトが最期を迎えられたのが神亀山。頂上の「可愛山陵」に葬られたが、その陵を守るように新田神社は鎮座している。

次は (    その8、ニニギノミコトを守る神亀山 新田神社 ) を詳しくお伝えする。