( 野間半島ドライブコース )
笠狭に落ち着かれたニニギノミコトの様子を【古事記】から拾ってみよう。
『 ある時、海浜を歩かれて、一人の乙女に逢った。ニニギノミコトは「お前は誰の子か?」と仰せられた。
答えて
「私はオオヤマツミノカミの子で名はコノハナノサクヤヒメと申します。
そして私の姉にイワナガヒメがおります」と申し上げた。
皇孫は「私はお前を妻にしようと思う。どうか?」と仰せられた。
答えて「私の父オオヤマツミノカミがおります。どうか父に御下問なさってくださいませ」と申し上げた。
そこで皇孫はオオヤマツミノカミに語って「私はお前の娘にあった。妻にしようと思う」と仰せられた。
そこでオオヤマツミノカミは早速二人の娘に、台に載せたたくさんの飲食物を持たせて献上した。
所が姉のほうが醜かったので、ニニギノミコトは姉を実家に帰してしまわれた。』
『 それから暫くたってコノハナノサクヤヒメはニニギノミコトの所へやってきて「私は妊娠しました」と告げた。
ニニギノミコトは「コノハナノサクヤヒメよ、一夜にして妊娠することはないであろう。それは我が子ではない。きっと国つ神 *1 の子であろう。」と仰せられた。
コノハナノサクヤヒメは「私が妊娠した子がもし国つ神の子であれば産むときに無事ではありますまい。もし天つ神の御子であれば無事でしょう。」と申して、無戸室(ウツムロ)と言われる戸口のない神聖な建物を作り、その建物の中に入り、土で塗り塞いで、今まさに出産しようとする時にその建物に火をつけて3人の御子を産んだ。
火が盛んに燃えているときに産んだ子の名は火照命(ホデリノミコト)、海幸彦と言われ阿多隼人の祖先と言われている。
次に産んだ子は火須勢理命(ホスセリノミコト)。
次に産んだ子の御名は火遠理命(ホオリノミコト)、またの名は天津日高日子穂々手見尊(アマツヒタカヒコホホデミノミコト)。(山幸彦。初代神武天皇の祖父)の3柱である。』
笠沙の宮跡の向かいに竹屋ケ尾という小高い山がある。
( 竹屋ケ尾全景 )
頂上には無戸室(うつむろ)跡と言われ、コノハナノサクヤヒメが出産した場所と言われる石碑が立っている。
見た所そんなに高くもないし、その石碑の写真も撮りたいと思い、登山口を探したが、見つからない。
近くの公民館に訪ねた所、「 しばらく誰も登っていないので登山口も登山道も木や草が生い茂りわからなくなっている。」との返事。
状況だけでも見ておきたいとおおかたの登山口の場所を聞くと、「あの山は蛇が多く、特にマムシが多いですよ。」との事。蛇がことのほか嫌いな筆者である。即決行くのを中止した。
3皇子はこの舞敷野で生まれ次の宮居である宮原で成長することになる。
この宮原の宮居跡には石碑が建っており、竹屋神社が鎮座している。
( 笠狭の宮跡の石碑 )
横の小さな碑には南さつま市教育委員会の説明文が記されている。
( 笠沙の宮跡の説明碑 )
この宮跡の西隣に鎮座するのが竹屋(たかや)神社である。
( 南さつま市加世田宮原に鎮座する竹屋(たかや)神社 )
( 竹屋神社拝殿 )
( 竹屋神社拝殿内部と奥に神殿 )
祭神は中央本宮にヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメのミコト。
東宮にホスセリノミコト、西宮にホテリノミコトをお祀りしており、旧社格は県社である。
( いかにも古社を思わせる対の狛犬 )
【日本書紀】に出産後の様子を
『 竹の刀をもってその御子のへその緒を切った。その時に捨てた竹の刀は後に竹林となった。その地を名付けて竹屋と言った。
又その時コノハナサクヤヒメは占いによって定めた神聖な田を名付けて狭名田(さなだ)と言った。
その田の稲で天甜酒(あまのたむさけ)を醸して神と饗応した。又渟浪田(ぬなた)の稲をご飯に炊いて神と饗応した。』 とある。
竹屋神社の境内には3兄弟が生まれた時, へその緒を切るために竹屋ケ尾の竹で竹刀を作り、へその緒を切った。それを捨てたものが根付いたと言われている竹藪が「へら竹山」と言われそこから株分けした竹が境内に生えている。
(へら竹山から株分けした竹)
また狭名田の長田と言われているのがここである。
( 霧島市田口にある狭名田の長田全景 )
( 狭名田の長田の説明書き )
火々出見の命(山幸彦)達3兄弟はこの笠狭の後宮ともいわれる宮原の地で成長する。
その後一家は薩摩川内へと移り住むこととなるが、これ以降のニニギノミコト・コノハナサクヤヒメについての記述は【古事記】【日本書紀】ともになく 最後に
『久しくたってニニギノミコトが崩御された。そこで筑紫の日向の可愛山陵に葬り申し上げた。』
との一文のみである。
但し、可愛山陵のある薩摩川内市には古くからの言い伝えが多く残されている。
次項ではその足跡を訪ねたい。
次は ( その7、ニニギノミコト終焉の地・薩摩川内 )