神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その7、ニニギノミコト終焉の地 薩摩川内

(  薩摩川内市を東西に流れる川内川。滔滔とした流れは左方10kmほどで東シナ海に注ぐ )

熊本県あさぎり町の白髪岳をその源とし、宮崎県、鹿児島県を通り、東シナ海に注ぐ。

九州では筑後川に次ぐ137kmの第2の長流である。

 

ニニギノミコト一家は海上吹上浜の沖を北上、市来、羽島崎を経て、この川内川河口に着いた。

この薩摩川内という地には、奈良時代国府が置かれた。

その理由として、この肥沃な沖積平野が人間の食生活を支える海の幸、山の幸をもたらしていること、またこの地が古くから水陸交通網の要衝を成していたこと、川内川と周囲の山々が天然の要塞になっていたことなどが考えられる。

ニニギノミコト天下り、日向各地を遠征し熊襲・隼人を従えこの地に日向王朝の礎を築いた。そしてその子ヒコホホデミノミコや孫のウガヤフキアエズノミコトがそれを発展させ、ひ孫の神武天皇までつながっていったというのも、なるほどと頷けるものがある。

河口の近くに新田神社の末社である船間島神社がある。ニニギノミコト一行が北上する船の水先案内者であり、この地で病死した十郎太夫を祭神としている。

( 船間島神社の案内板 )

 

( 船間神社への参道 )

 

( 船間神社社殿 )

また船間島から東に1Kmほどの所に月屋山がある。

 

( 月屋山全景 )

ニニギノミコトはこの山に掛かった月を愛でられて、月見山と名ずけられた。のち月夜山となり、現在月屋山と言われている。

ニニギノミコト一行は川内川を遡り初めに宮居を置かれたのが新田神社の対岸、宮里の地である。

( 川内川畔宮里地区 )

この宮里の地には新田神社の前身の社があったと伝えられている。また宮居跡と言われる付近からは石器や鉄の直刀が出土しており、弥生時代から古墳時代にかけて、いわゆる古代人が住んでいたと言われている。

その宮居跡と言われているのがこちら宮里地区日吉である。

現在この地には市内の区画整理で移動を余儀なくされた田の神が祀られている。

この後宮居は現在の都町に移転し、その宮居跡に都八幡神社が鎮座している。

 

( 都八幡神社 )

市中心部から南へ5km程、住宅地の中の坂道を少し登ったところが、かなり広い平地になっている。

2021年秋に参拝した時には台風被害で躯体を残しほとんどが損傷しブルーシートで覆われていた。今回2年後に訪問したが、やはり同じ状態であった。

ニニギノミコトの宮はこの後宮ノ原から屋形原へと移り最後は神亀山に宮居を構え、ここで最期を迎えることとなる。

( 屋形が原のニニギノミコト宮居跡 )

説明書きに( 神代聖蹟ニニギノミコト寓居址 )と記されている。

昭和15年(1940年)が初代神武天皇即位2600年にあたり、これを日本中で祝う奉祝行事が行われた。その一環として各地の神武天皇聖蹟調査が行われた。

その結果文部省が妥当だと判断したものについて次々と石碑が建てられていった。時は日中戦争の真っただ中である。これも国威発揚に寄与したと思われる。

このブログで紹介している旧跡はほとんどがその当時のものである。

 

( 市街地の中にこんもりと盛り上がった山である。正面の山が亀の甲羅部分にあたり、左の小さな山が頭と言われ亀に似ているところから、神亀山と言われている。)

ニニギノミコトが最後に宮居を置かれたのはこの神亀山と言われており、崩御後にこの頂上に葬られた。

神亀山の長い階段を登ると新田神社にたどり着く。その神社の前を通り右手の小さな階段を降りると宮内庁の管理事務所があり、その奥にニニギノミコトの可愛山陵(えのみささぎ)がある。

( 宮内庁の管理事務所 )

 

( ニニギノミコトの可愛山陵 )

可愛山陵(えのみささぎ)は、高屋山上陵(たかやさんじょうりょう、山幸彦・霧島市)、吾平山上陵(あいらさんじょうりょう、ウガヤフキアエズノミコト・鹿屋市)と共に神代三山陵と呼ばれてる。

 

日本書紀】に『 しばらくたってニニギノミコト崩御された。そこで筑紫の日向の可愛山陵に葬り申し上げた。』とある。

但し他にも宮崎県の俵野古墳や同県西都市の雄狭穂塚をこれに充てる説もあったが、明治7年7月御裁可を経てこの地に勅定されている。

またこの神亀山にはニニギノミコトの妃コノハナサクヤヒメと長子、天火照命(アメノホデリノミコト)の御陵がある。

( コノハナサクヤヒメ陵の入り口 )

亀の頭の部分の森は全体がフェンスに囲まれており南北2か所に扉が点いている。中に入るとかなり雑草が生えているが参道の小道はきれいに手入れされている。

( 端陵と言われているコノハナサクヤヒメ陵の鳥居 )

 

( コノハナサクヤヒメの端陵 )

端陵(はしのみささぎ)と言われ、神亀山の頭の部分の頂上に祀られているコノハナサクヤヒメの御陵である。

小さな祠が建てられており、この中には神鏡1面が治められている。土地の人達からは「御前様の陵」として親しまれ、鬱蒼とした森の中ではあるが、ここだけは光がさしている。



( 「端陵」の説明文 )

また神亀山の首の部分には、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメの長子天火照命の御陵がある。

( 「中陵」の入り口に立つ鳥居 )

火照命の御陵と言われている「中陵」(なかのみささぎ)は「端陵」と同じく深い森の中である。

( 「中陵」 )

わずかに薄日の射す祠を覆うように、緑の木々に囲まれ鳥のさえずりもなく、ただ静かである。

この「中陵」については江戸時代(1806年)祠の4隅に植えられていた松の木の1本が枯れたので、土地の人が撤去するため根を掘り起こしたところ石棺に掘りあたった。

中を見ようと蓋を少しずらすと隙間から白気が噴出し、内部は青赤い色に見えたので人達は恐れをなして、掘るのをやめてもとに戻した。との話が伝わっている。

 

( 「中陵」の説明文 )

この両陵とも「端陵神社・中陵神社」として新田神社の末社である。

 

薩摩川内は遺跡の多い土地である。

神亀山から3Kmほど北西に行ったところの五代町に冠山という山がある。

高さ20mほどのその山の麓に新田神社の末社である川合陵神社がある。

( 川合陵神社のへの案内標識 ) 

ここは【日本書紀】でいうニニギノミコトの第三子(または兄)天火明命の陵と伝えられ、土地の人は「陵殿」(みささぎどん)と呼んでいる。

( 川合陵神社鳥居 )

( 川合陵神社社殿 )

( 川合陵神社由緒書 )

ニニギノミコトが最期を迎えられたのが神亀山。頂上の「可愛山陵」に葬られたが、その陵を守るように新田神社は鎮座している。

次は (    その8、ニニギノミコトを守る神亀山 新田神社 ) を詳しくお伝えする。