神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

その4、霧島神宮 ニニギノミコトを祀る国の重要文化財

( 三の鳥居、奥にうっすらと本殿を拝する )

朝7時過ぎ、霧島神宮の参道。

風もなくシーンと静まりかえった中、出勤する巫女さんの下駄の音、職員が使う竹ぼうきの音、遠くに聞こえる鶯の声、それ以外の音は何もない。まさに別の世界である。

高天原から葦原中津国に降臨されたニニギノミコトをお祭りする社、それがこの霧島神宮である。

当神宮の由緒書きによると ” 欽明天皇の御宇(西暦540年)高千穂峰の峰近く背門丘(せとお)に社殿が建立された ” とある。

それがこちらである。

( 元宮の鳥居と小さな祠 )

お鉢から高千穂峰に向かう途中、いったん下ったところに平地があり、そこに鳥居が立っている。向こうの高千穂峰の頂上には天の逆鉾がかすかに見えている。

正面は高千穂の頂であり、背面は噴火口である。

まさに火山の只中に位置している。

鳥居の傍に標柱があり 

「 この背門丘の地は人皇29代欽明天皇元年(西暦540年)僧慶胤が神殿を造営し天孫天津日高彦火瓊瓊杵尊(てんそんアマツヒコホノニニギノミコト)を奉斎せし聖地なり と伝えこれ霧島神宮の創祀なり 」

とあり、ニニギノミコトを初めて祀った社殿の跡である。

 

( 鳥居の傍に建っている石碑 )

 

《元宮》は西暦780年の噴火により焼失、天暦年間村上天皇の御代(西暦947年~957年)に性空上人により現在の高千穂河原《古宮址》の地に再興された。

( 高千穂河原ビジターセンタに建つ《古宮》の鳥居)

鳥居右の由緒書きには

『 日本で最も古い歴史書である【古事記】【日本書紀】に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが《襲の高千穂の峰に天下ります》と記されてあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古より多くの人々の崇敬を集めてきました。この高千穂河原は文暦元年(西暦1234年まで霧島神宮があった処です。霧島山の大噴火により、社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は神籬 *1 斎場として、現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。』と記されている。

 

( 《古宮址》の入り口に立つ「天孫降臨神籬斎場」(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)の碑 )

( 現在も祭祀が行われている神籬斎場 )

特に11月10日の御神火祭は松明に火を移し、高く積まれた祈願絵馬にその火が点火され、天孫降臨の御事績

が称えられる。同時に高千穂峰では頂上祭が斎行され、祭典後には勇壮な九面太鼓と霧島神楽が奉納される壮大な祭祀である。。

そして現在の霧島神宮がこれである。

( 現在の霧島神宮社殿。)

朝日に向かって拝礼する神職。あさの清々しいひと時である。

「 この社殿は第21代藩主島津吉貴公が生徳5年(1715年)に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐(りんかん)の美をなし、西の日光とも称される。

特に殿内は漆塗りで、二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬張りが施されている。

明治7年「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格され、平成元年には国の重要文化財に指定された。

主祭神ニニギノミコト、相殿は妃のコノハナサクヤヒメ、御子のヒコホホデミノミコトとその妃トヨタマヒメノミコト、御孫のウガヤフキアエズノミコトとその妃タマヨリヒメノミコト、そして曾孫の神武天皇の7柱である。」

と神宮の由緒書きに記されている。

神宮の境内は広大であり、大鳥居から歩くと階段やゆるい上り坂の参道が続いており、筆者の足で20分程で本殿に到着した。

( 境内の地図 )

2、天孫降臨の稿で少し触れたが、大鳥居は県道60号線と国道223号線との交差点「霧島神宮前」の信号の傍にある。

( 霧島神宮大鳥居 )

明神鳥居であり、優美な中にも力強くどっしりとした鳥居である。

 

鳥居の横には観光案内所があり、マップや資料が準備されている。

( 観光案内所 )

 

少し登るとロータリーがあり、周辺には民宿や居酒屋などが立ち並んでいる。

( ロータリー周辺 )

まだ早朝のため人影はない。向こうに神橋が見える。

( 神橋から最初の階段 )

右には「 霧島神宮 」と書かれた大きな石標が建っている。

この階段を上がると二の鳥居になる。

 

( 二の鳥居 )

参道はこの先で突き当りそこは広場になっている。参道はさらに右へ折れ三の鳥居に続くが、この広場には左に展望台があり横には坂本龍馬おりょうの撮影スポットがある。

( 左の囲いの中の岩は竜馬と妻おりょうが腰を掛け休息したと言われている )

龍馬は慶応2年1月(西暦1866年)京都伏見の寺田屋に宿泊中、伏見奉行配下の侍30人ばかりに襲われ傷を負った。

薩摩屋敷に保護を求めた龍馬とおりょうは薩摩の西郷の勧めで鹿児島に向かい温泉で傷の治療を行った。

その折に高千穂峰への登山を行い、天の逆鉾を引き抜いた話は有名である。

その帰途霧島神宮へお参りし鹿児島に戻ったと言われている。

 

( 展望台は南に面しており、噴煙たなびく桜島が見える。)

 

その他この広場には徳富蘇峰(とくとみそほう)の揮毫(きごう)による「神聖降臨の碑」がある。

( 「神聖降臨の詩碑」 )

詩文は

「 神聖降臨地 乾坤定位時 煌々至霊気 萬世護皇基 」( しんせいこうりんのち けんこんていいのとき こうこうたるしれいのき ばんせこうきをまもる )

と書かれており、説明文に 「 この詩は昭和27年「卒寿」を迎えた蘇峰の詠詩揮毫で、国体の精華が読み上げられている。」 とある。

 

またその横には「オガタマの木」がある。

( 中央 オガタマの木 )

「オガタマの木」はモクレン科の仲間で常緑樹であり、招霊(オガタマ)の木とも書き古来より縁起の良い木とされている。神話では天照大神が天の岩戸にお隠れになったとき、神々が集まり出ていただくために相談をした。

そのような中、アメノウズメノミコトが岩戸の前でこの木の枝を両手に持ち樽を伏せた上で踊ったと「古事記」に記されている。

 

( 説明書きの前の丸い石は国歌に歌われている「さざれ石」である。)

説明書には

「 この石は国歌発祥の地 岐阜県揖斐郡春日村の山中から発見された石です 」と書かれている。

 

広場の右手には休憩所があり、その奥は駐車場になっている。

( 手前が休憩所兼物産館で、奥がトイレ棟 )

 

( 駐車場 ) 

 

そしてこの広場の奥に三の鳥居がある。

( 三の鳥居 )

樹木で鬱蒼とした境内の中で奥の社殿には陽が射している。

 

( 社殿向かって左側に位置する授与所 )

 

( 社殿向かって右側の御神木 )

 

この御神木は霧島杉とも言われ樹齢800年、高さ38m、幹回り7.2mである。

坂本龍馬が姉への手紙の中であまりの大きさに驚いたと記している杉の御神木である。

( 拝殿及び神殿 )

 

( 手水舎 )

 

( 神楽殿全景 )

( 神楽殿 )

 

( 神楽殿内部 )

 

また神宮の西の森は自然遊歩道のコースにもなっている。

そのコースの中には小さな神社なども点在している。

( 山神神社 )

 

( 鎮守神社 )

 

( 性空上人墓地 )

 

( 御手洗川 )

( 霧島の七不思議の説明版 )

又境内の北側直ぐの所に霧島神宮の斎田がある。

( 斎田 )

( 斎田 北からの撮影)

お田植債は3月3日に行われ収穫されたコメは年間を通して神宮のお祭りにお供えされる。

霧島神宮にこの時間参拝したのは初めてである。朝日が燦燦と降り注ぐ中、そしてシーンとしずまった空気の中でのお参りは、今日一日何かいい事がありそうな、そんな明るい気持ちにさせられる。

次は ( その5 ニニギノミコトの日向巡行 ) 

 

 

 

 

 

 

*1:ひもろぎ・神霊が依りつくこと