神話探訪 日向の国高千穂から奈良橿原へ

壮大なドラマで彩る【 記・紀 】神話の世界 その足跡を訪ねる

神話探訪  日向の国高千穂から奈良橿原へ    《 目  次 》

 

その1 はじめに

その2 天孫降臨 天孫ニニギノミコト 日向の国高千穂に降臨する

その3 天の逆鉾 高千穂峰の頂上に立てられている鉾、誰が何のために?

その4 霧島神宮 ニニギノミコトを祀る国の重要文化財

その5 ニニギノミコトの日向巡行

その6 ニニギノミコトの結婚と三皇子の誕生

その7 ニニギノミコト終焉の地、薩摩川内

その8 ニニギノミコトを祀る神亀山 新田神社

その9 山幸彦(ヒコホホデミノミコト)  兄海幸彦(ホスセリノミコト)との争いとトヨタマヒメノミコトとの結婚

 

神勅(しんちょく)とは ?

3大神勅とは

ニニギノミコト高天原を出発するに際し、天照大神は孫のニニギノミコトに対し3つの命令を下した。

ニニギノミコトに対し

「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」・・葦原の瑞穂の国は、我が子孫が王となるべき地である。行って治めるがよい。天地のある限り永遠に栄えるだろう。

「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」・・この宝鏡を私だと思って、同じ御殿にお祀りしなさい。  

「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」・・ 私が高天原で食している斎庭の稲穂(稲の種)を我が御子に与えよう。

 

 

 

 

 

 

三種の神器の歴史

 

「 草薙剣(くさなぎのつるぎ) 」

スサノウノミコトが高天原を追放になって、出雲の国の簸(ひ)の川上におくだになり、八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治した時にその尻尾から出て来た剣である。

その剣をスサノウノミコトは高天原に戻り、天照大神に献上した。

天照大神ニニギノミコトの降臨に際し、豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国の統治者の印としてその剣を渡した。

時代は下るが、景行天皇の皇子、倭建命(ヤマトタケルノミコト)は父天皇より九州征伐の後、東国遠征を命じられた。

途中伊勢神宮に伯母の倭姫を訪ねた時にお守りとして草薙剣を与えられた。

そして東海道を進む途中ある国の国造の罠にはまり草原で燃え盛る炎に囲まれてしまう。

倭建命は草薙剣で周囲の草を薙ぎ払い難を逃れた。(剣の名称はこれ以前は天の叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)と言っていたが、これより草薙の剣となる。その故事から、その場所を今は静岡県焼津と言う。)

東国を平定した倭建命は、婚約者である尾張の国造の娘美夜受比売(ミヤズヒメ)の元に帰り、最後に伊吹山の荒ぶる神を退治に出かけた。

剣を置いて出かけた命は、山中で暴風雨にあい、それがもとで病に侵され倭を目指したが今の三重県能褒野(のぼの)で命をおとすことになる。

この時の倭建命の詩

     倭(やまと)は国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

住み慣れた大和の風景を思いながら、死んでいく倭建命の心が伝わってくる悲しい誌である。

美夜受比売命はこの神剣を畏まれ神社に祀られた。これが名古屋の熱田神宮の創祀となりました。現在も熱田神宮御神体である。

 

「 八咫の鏡(やたのかがみ)」

ニニギノミコト以来八咫の鏡は天照大神の御霊代(みたましろ)として宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇スジン)の御代、国中に疫病が大流行し、民の病死や流浪・反乱が相次いだ。

崇神天皇天照大神(八咫の鏡)を人間と同じ床で祀ることは畏れ多いと考え、

皇女の豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託し倭の笠縫邑(かさぬいむら)に神殿を立て祀りました。

その後豊鋤入姫命が高齢になったので、第11代垂仁天皇(スイニン)の代に垂仁天皇の皇女の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に受け継がれた。

してこの時から天照大神が鎮座するに相応しい地を求めて、倭姫命の巡幸が始まる。

大和の三輪山を出発し三重県滋賀県岐阜県の各地で宮を立て八咫鏡天照大神)を祀られたが、最後に伊勢に来た時に天照大神のお告げがあり、五十鈴川の川上に宮をたてた。(巡幸した各地の宮は伊勢神宮の「元宮」として現在も聖蹟として地元で祀られている。)

大和を出発し十数か所の御鎮座地を経て、34年の歳月を費やし天照大神(八咫の鏡)が辿りついた地、それが伊勢であり、伊勢神宮の創始である。たが、

この時から「八咫の鏡」と「草薙の剣」はこの伊勢神宮で祀られていたが、「草薙の剣」は前述したように熱田神宮御神体として奉斎されている。

 

「 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 」

三種の神器のうち草薙剣と八咫の鏡はいろいろな経緯をたどり現在に至っているが、八尺瓊勾玉については特段の記録がない。おそらく崇神天皇の時代から皇居に奉安されているものと思われる。

 

三種の神器天皇の傍らにあり皇位を象徴するものであるが、現在皇居にあるものはそれらの形代(写しである。)

従って源平合戦の最後の戦いである壇ノ浦の戦いでも、安徳天皇の傍らにあった三種の神器関門海峡に沈んだが、是も形代である。

記憶に新しい所では、今上天皇が即位した5年前、皇居松の間で行われた「剣璽等承継の儀」の折、侍従が捧げ持ち会場に入場したのが「草薙の剣」と「璽」(勾玉)の形代である。同時に「国璽」「御璽」(国名印、天皇印)も継承された。

また「八咫の鏡」の形代は宮中3殿の賢所に鎮まれており、天皇陛下が奉斎されている。

 

 

 

 

 

 天の沼矛とは

日本の国土が出来る以前の話(神話)である。

伊邪那岐命イザナギノミコト)・ 伊邪那美命イザナミノミコト)の二柱の神は、高天原の神々から 「 この漂える国を修め理り(つくり)固め成せ 」 とのお言葉があり、天の沼矛(あめのぬほこ)を賜ってこれを委任された。

そこで二柱の神は天と地に架けられた天の浮橋にお立ちになり、沼矛を指しおろして、海面をかき回しました。

海水をコロコロと鳴らして引き上げると、矛の先から海水が滴り落ち、やがて潮が塩になり島が出来ました。これが 「 おのごろ島 」 と言われており、現在淡路島の南約5kmに浮かぶ、「沼島」 です。

 

その3、 天の逆鉾  高千穂峰の頂上に立てられている鉾 誰が何のために?

 

 

(  高千穂の峰、頂上に、天の逆鉾が見える。 )

 

 

( 高千穂峰頂上の天の逆鉾 )

 

( 高千穂河原ビジターセンターに展示されている天の逆鉾のレプリカ )

この逆鉾を誰がいつ頃建てたのかはさだかでない。

イザナギノミコト・イザナミノミコトが日本の国土を作るときに使った 「天の沼矛」 ではないか? ニニギノミコトが天下るときに目印のために投げおろしたのではないか? また 霧島連山は山岳宗教の聖地であるため修行中の山伏が戦いのない平和な世を祈念して建てたのではないか "   などなど諸説ある。

また形についても、坂本龍馬が妻のお龍さんと高千穂峰に登り、逆鉾を引き抜いた話は有名であるが、この時姉の乙女さんに送った手紙の中の絵と現在の形は違う。

( 坂本龍馬手紙全文 )

 

江戸時代末期に長崎の人で医師であり画家の木下逸雲が高千穂峰に登り「霧島山に登るの記」という短文を残しているが、その文中の絵は下記の通りである。

( 宮崎県高原郷土誌より。右図天の逆鉾の柄の部分。また左の図は噴石が当たり飛び散った先端剣の部分) 

木下逸雲がこれを画いたのは文政年間(西暦1818~1830年)であり龍馬の手紙より50年程前である。

実はこの逆鉾は約900年前の霧島山の大噴火の時、噴石が当たり先端の刃の部分が飛び散り、龍馬や木下逸雲が描いたような形になったと言われている。

逸雲の絵はさすがに画家らしく折れた部分を細かく描いている。

その後これを社宝としている霧島東神社で修復を行い、現在の形になっている。頂上の鳥居の内側はこの霧島東神社の飛び地境内となっており、立ち入り禁止てある。神社の宮司さんたちは月に一度この山に登りお祈りをしている。

鉾の先端は3本の両刃の剣になっている。材質は青銅製かと思われ、長い柄が土中に埋まっている。

ビジターセンターから霧島東神社まで車で30分の距離である。

お参りに行く。

駐車場の向こうに赤い鳥居があり、そこから参道が奥にのびている。

( 霧島東神社の一の鳥居 )

 

( 鳥居を潜るとここから参道 )

 

( 参道入口に立つ由緒書き )

由緒書きには(要約)

第十代崇神天皇の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建された。御祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトである。

度重なる霧島山の噴火により復興造営を重ねており、現在の社殿は西暦1722年の造営により、幾度かの改修を経て今に至る。

社殿奥には雌雄一対の龍柱が祀られ、正面には西暦1666年薩摩藩島津光久公の寄進した 「 東霧島坐 」の扁額 *1 が治められている。

と書かれている。

( 社務所 )

扁額には霧島大権現東光坊錫杖院門跡と書かれている。もとは霧島山を信仰の対象とする霧島六所権現の一社であり、神仏習合の名残であろう。

 

( 参道 )

深い森の中を進むと、わずかばかりの風と葉擦れの音。抱き包まれるような、穏やかな安らぎを感じる。

 

( 手水社 )

 

途中神門があり、潜ると正面に社殿を拝する。。

 

 

( 石段を登ると社殿 )

 

( 奥の神殿 )

拝殿の前に着いた。柏手の音が森の中に響き渡る。

時折吹き抜ける風にのって、遠くに鶯の谷渡りが聞こえる。まさに神域を実感する空間である。

話は戻るが、先に記した【 高原町郷土誌 】に記載されている逆鉾の図の中、左側に逆鉾の先端部分の図がある。

高原町郷土誌】の説明文には

ある人が高千穂の頂上より折れた矛先を持ち下り、荒武神社の御神体として奉斎した。このことは霧島東神社の別当であった錫杖院の旧記の中に書かれている。そして文化年間(1804~1814年)本阿弥宗円という人が現地へ行った折、それを写し取ったと言われている。(前図の左側)

念のため荒武神社に向かう。

荒武神社は霧島東神社から30分足らずの所、県道31号線,都城市吉ノ元小学校の裏手に鎮座していた。

 

( 荒武神社 )

思っていたより小さな神社である。

祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコト・アマテラスオオミカミ・オシホミミノミコト・ニニギノミコトヒコホホデミノミコトウガヤフキアエズノミコト・神武天皇の8柱。

 

 

鳥居の左、由緒書きには

「 鳥羽天皇天永3年(1112年)2月2日霧島山が大噴火し、頂上の逆鉾(穂先)が西嶽村の山中の不動石に落下し荒武神社に御神体として奉安される。ご神体は終戦直後に紛失するが、2001年地元出身の丸山一英氏によりご神体が寄贈され、同時に神社の社も地元住民の念願がかない新築される。 」

とある。

社は内部が6畳位であろうか、ガラス戸から内部が全て見渡せ、ご神体が納まっている様子はない。

由緒書きには荒武神社奉賛会とあるので訪ねてみようと思ったが、畑ばかりで人の影がない。

なんとなく消化不良のスッキリしない気持ちで、今日の一日が終わりそうだ。

気分直しに道の駅に併設の「神話の里公園」に寄ってみることにした。

山を切り開き、かなりの勾配である。登りはロードトレインで登る。

 

館内には神話に関する資料や、映像がある。

 

南を見れば遠くに桜島がかすんで見える。白く噴煙を上げながら一日の終わりを告げているようだ。

なにはさておき今日も1日無事に終わりそうである。感謝。

次は ( その4 ニニギノミコトを祀る国の重要文化財 )

 

 

 



 

*1:へんがく・建物の高い位置に掲出される額

ニニギノミコトの降臨に際し随伴した神々

ニニギノミコト随行した神々

 

〇  天児屋命(アメノコヤノミコト) ・ ・ ・ 中臣氏の祖先

〇  布刀玉命 (フトダマノミコト) ・ ・ ・ 忌部氏の祖先 

〇  天宇受売命(アメノウズメノミコト) ・ ・ 猿女君の祖先

〇  伊斯許理度売命イシコリドメノミコト) ・ 作鏡連の祖先

〇  玉祖命(タマノヤノミコト) ・ ・ ・ ・ 玉祖連の祖先

 この5柱の神を「五伴緒」(いつとものお)といい、天照大神が天の岩屋にお隠れになり、世界が真っ暗になったとき,岩戸を開き出ていただこうと活躍した神々である。

ちなみに、この天の岩屋の部分を【 古事記 】から引用すると

『 天の金山の鉄を取って伊斯許理度売命イシコリドメノミコト)に命じて鏡を作らせ、玉祖命(タマノヤノミコト)に命じて八尺の勾玉(やさかのまがたま)を数多く長い緒に貫き通した玉飾りを作らせ、天児屋命アメノコヤネノミコト)と布刀玉命(フトダマノミコト)に天の香山(あまのかぐやま)の茂った榊(さかき)を根こそぎ掘り取ってきて、その上方の枝に八尺の勾玉(やさかのまがたま)を数多く長い緒に貫き通した玉飾りをつけ、中ほどの枝に八尺の鏡(やあたのかがみ)をかけ、下方の枝には白い幣(へい)と青い幣をさげてこれを布刀玉命(フトダマノミコト)が尊い御幣(ごへい)として捧げ持ち天児屋命(アマノコヤネノミコト)が尊い祝詞(のりと)を寿ぎ申しあげた。天手力男神(タジカラオノカミ)が戸の脇に隠れ立ち天宇受売命(アメノウズメノミコト)が天の香山の日陰蔓(ひかげのかずら)を襷にかけ、真析蔓(まさきかずら)を髪飾りにして、天の香山の笹の葉を採物に束ねて手に持ち、天の岩屋の戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神がかりして胸の乳を露出させ、裳の紐を下げた。すると高天原が鳴り響くほどに数多(あまた)の神々がどっと笑った。』

とあり 岩屋の中の天照大神は何事かと少し岩戸を開けたところを天手力男神が手を取って引き出した。

 

この5柱の神の外に降臨に御伴をした神々は以下である。

 

〇  手力男神(たじからおのかみ)・ 岩屋の戸を引き開けた神

〇  思兼神(オモイカネノカミ) ・ 天照大神に岩屋から出ていただく方法を考えた神

〇  天石門別神アメノイワトワケノカミ) ・ 宮廷の門を守る神

〇  天忍日命(アメノオシヒノミコト) ・ 大伴氏の祖先」

〇  天津久米命(アマツクメノミコト) ・ 久米氏の祖先

  天忍日命と天津久米命は降臨に際し、太刀を腰に下げ弓矢を取り御子の前に立ち先導した。

 

 

 

  

  

 

 

   

その4、霧島神宮 ニニギノミコトを祀る国の重要文化財

( 三の鳥居、奥にうっすらと本殿を拝する )

朝7時過ぎ、霧島神宮の参道。

風もなくシーンと静まりかえった中、出勤する巫女さんの下駄の音、職員が使う竹ぼうきの音、遠くに聞こえる鶯の声、それ以外の音は何もない。まさに別の世界である。

高天原から葦原中津国に降臨されたニニギノミコトをお祭りする社、それがこの霧島神宮である。

当神宮の由緒書きによると ” 欽明天皇の御宇(西暦540年)高千穂峰の峰近く背門丘(せとお)に社殿が建立された ” とある。

それがこちらである。

( 元宮の鳥居と小さな祠 )

お鉢から高千穂峰に向かう途中、いったん下ったところに平地があり、そこに鳥居が立っている。向こうの高千穂峰の頂上には天の逆鉾がかすかに見えている。

正面は高千穂の頂であり、背面は噴火口である。

まさに火山の只中に位置している。

鳥居の傍に標柱があり 

「 この背門丘の地は人皇29代欽明天皇元年(西暦540年)僧慶胤が神殿を造営し天孫天津日高彦火瓊瓊杵尊(てんそんアマツヒコホノニニギノミコト)を奉斎せし聖地なり と伝えこれ霧島神宮の創祀なり 」

とあり、ニニギノミコトを初めて祀った社殿の跡である。

 

( 鳥居の傍に建っている石碑 )

 

《元宮》は西暦780年の噴火により焼失、天暦年間村上天皇の御代(西暦947年~957年)に性空上人により現在の高千穂河原《古宮址》の地に再興された。

( 高千穂河原ビジターセンタに建つ《古宮》の鳥居)

鳥居右の由緒書きには

『 日本で最も古い歴史書である【古事記】【日本書紀】に霧島神宮の御祭神ニニギノミコトが《襲の高千穂の峰に天下ります》と記されてあるように、高千穂峰は神様の宿る山として古より多くの人々の崇敬を集めてきました。この高千穂河原は文暦元年(西暦1234年まで霧島神宮があった処です。霧島山の大噴火により、社殿を田口にお移ししておりますが、高千穂河原は神籬 *1 斎場として、現在も祭祀が継続されており、特に11月10日には天孫降臨御神火祭が峰の頂上と斎場で斎行されております。』と記されている。

 

( 《古宮址》の入り口に立つ「天孫降臨神籬斎場」(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)の碑 )

( 現在も祭祀が行われている神籬斎場 )

特に11月10日の御神火祭は松明に火を移し、高く積まれた祈願絵馬にその火が点火され、天孫降臨の御事績

が称えられる。同時に高千穂峰では頂上祭が斎行され、祭典後には勇壮な九面太鼓と霧島神楽が奉納される壮大な祭祀である。。

そして現在の霧島神宮がこれである。

( 現在の霧島神宮社殿。)

朝日に向かって拝礼する神職。あさの清々しいひと時である。

「 この社殿は第21代藩主島津吉貴公が生徳5年(1715年)に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐(りんかん)の美をなし、西の日光とも称される。

特に殿内は漆塗りで、二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬張りが施されている。

明治7年「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格され、平成元年には国の重要文化財に指定された。

主祭神ニニギノミコト、相殿は妃のコノハナサクヤヒメ、御子のヒコホホデミノミコトとその妃トヨタマヒメノミコト、御孫のウガヤフキアエズノミコトとその妃タマヨリヒメノミコト、そして曾孫の神武天皇の7柱である。」

と神宮の由緒書きに記されている。

神宮の境内は広大であり、大鳥居から歩くと階段やゆるい上り坂の参道が続いており、筆者の足で20分程で本殿に到着した。

( 境内の地図 )

2、天孫降臨の稿で少し触れたが、大鳥居は県道60号線と国道223号線との交差点「霧島神宮前」の信号の傍にある。

( 霧島神宮大鳥居 )

明神鳥居であり、優美な中にも力強くどっしりとした鳥居である。

 

鳥居の横には観光案内所があり、マップや資料が準備されている。

( 観光案内所 )

 

少し登るとロータリーがあり、周辺には民宿や居酒屋などが立ち並んでいる。

( ロータリー周辺 )

まだ早朝のため人影はない。向こうに神橋が見える。

( 神橋から最初の階段 )

右には「 霧島神宮 」と書かれた大きな石標が建っている。

この階段を上がると二の鳥居になる。

 

( 二の鳥居 )

参道はこの先で突き当りそこは広場になっている。参道はさらに右へ折れ三の鳥居に続くが、この広場には左に展望台があり横には坂本龍馬おりょうの撮影スポットがある。

( 左の囲いの中の岩は竜馬と妻おりょうが腰を掛け休息したと言われている )

龍馬は慶応2年1月(西暦1866年)京都伏見の寺田屋に宿泊中、伏見奉行配下の侍30人ばかりに襲われ傷を負った。

薩摩屋敷に保護を求めた龍馬とおりょうは薩摩の西郷の勧めで鹿児島に向かい温泉で傷の治療を行った。

その折に高千穂峰への登山を行い、天の逆鉾を引き抜いた話は有名である。

その帰途霧島神宮へお参りし鹿児島に戻ったと言われている。

 

( 展望台は南に面しており、噴煙たなびく桜島が見える。)

 

その他この広場には徳富蘇峰(とくとみそほう)の揮毫(きごう)による「神聖降臨の碑」がある。

( 「神聖降臨の詩碑」 )

詩文は

「 神聖降臨地 乾坤定位時 煌々至霊気 萬世護皇基 」( しんせいこうりんのち けんこんていいのとき こうこうたるしれいのき ばんせこうきをまもる )

と書かれており、説明文に 「 この詩は昭和27年「卒寿」を迎えた蘇峰の詠詩揮毫で、国体の精華が読み上げられている。」 とある。

 

またその横には「オガタマの木」がある。

( 中央 オガタマの木 )

「オガタマの木」はモクレン科の仲間で常緑樹であり、招霊(オガタマ)の木とも書き古来より縁起の良い木とされている。神話では天照大神が天の岩戸にお隠れになったとき、神々が集まり出ていただくために相談をした。

そのような中、アメノウズメノミコトが岩戸の前でこの木の枝を両手に持ち樽を伏せた上で踊ったと「古事記」に記されている。

 

( 説明書きの前の丸い石は国歌に歌われている「さざれ石」である。)

説明書には

「 この石は国歌発祥の地 岐阜県揖斐郡春日村の山中から発見された石です 」と書かれている。

 

広場の右手には休憩所があり、その奥は駐車場になっている。

( 手前が休憩所兼物産館で、奥がトイレ棟 )

 

( 駐車場 ) 

 

そしてこの広場の奥に三の鳥居がある。

( 三の鳥居 )

樹木で鬱蒼とした境内の中で奥の社殿には陽が射している。

 

( 社殿向かって左側に位置する授与所 )

 

( 社殿向かって右側の御神木 )

 

この御神木は霧島杉とも言われ樹齢800年、高さ38m、幹回り7.2mである。

坂本龍馬が姉への手紙の中であまりの大きさに驚いたと記している杉の御神木である。

( 拝殿及び神殿 )

 

( 手水舎 )

 

( 神楽殿全景 )

( 神楽殿 )

 

( 神楽殿内部 )

 

また神宮の西の森は自然遊歩道のコースにもなっている。

そのコースの中には小さな神社なども点在している。

( 山神神社 )

 

( 鎮守神社 )

 

( 性空上人墓地 )

 

( 御手洗川 )

( 霧島の七不思議の説明版 )

又境内の北側直ぐの所に霧島神宮の斎田がある。

( 斎田 )

( 斎田 北からの撮影)

お田植債は3月3日に行われ収穫されたコメは年間を通して神宮のお祭りにお供えされる。

霧島神宮にこの時間参拝したのは初めてである。朝日が燦燦と降り注ぐ中、そしてシーンとしずまった空気の中でのお参りは、今日一日何かいい事がありそうな、そんな明るい気持ちにさせられる。

次は ( その5 ニニギノミコトの日向巡行 ) 

 

 

 

 

 

 

*1:ひもろぎ・神霊が依りつくこと