「 草薙剣(くさなぎのつるぎ) 」
スサノウノミコトが高天原を追放になって、出雲の国の簸(ひ)の川上におくだになり、八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治した時にその尻尾から出て来た剣である。
その剣をスサノウノミコトは高天原に戻り、天照大神に献上した。
天照大神はニニギノミコトの降臨に際し、豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国の統治者の印としてその剣を渡した。
時代は下るが、景行天皇の皇子、倭建命(ヤマトタケルノミコト)は父天皇より九州征伐の後、東国遠征を命じられた。
途中伊勢神宮に伯母の倭姫を訪ねた時にお守りとして草薙剣を与えられた。
そして東海道を進む途中ある国の国造の罠にはまり草原で燃え盛る炎に囲まれてしまう。
倭建命は草薙剣で周囲の草を薙ぎ払い難を逃れた。(剣の名称はこれ以前は天の叢雲の剣(あめのむらくものつるぎ)と言っていたが、これより草薙の剣となる。その故事から、その場所を今は静岡県焼津と言う。)
東国を平定した倭建命は、婚約者である尾張の国造の娘美夜受比売(ミヤズヒメ)の元に帰り、最後に伊吹山の荒ぶる神を退治に出かけた。
剣を置いて出かけた命は、山中で暴風雨にあい、それがもとで病に侵され倭を目指したが今の三重県能褒野(のぼの)で命をおとすことになる。
この時の倭建命の詩
倭(やまと)は国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
住み慣れた大和の風景を思いながら、死んでいく倭建命の心が伝わってくる悲しい誌である。
美夜受比売命はこの神剣を畏まれ神社に祀られた。これが名古屋の熱田神宮の創祀となりました。現在も熱田神宮の御神体である。
「 八咫の鏡(やたのかがみ)」
ニニギノミコト以来八咫の鏡は天照大神の御霊代(みたましろ)として宮中に祀られていたが、第10代崇神天皇(スジン)の御代、国中に疫病が大流行し、民の病死や流浪・反乱が相次いだ。
崇神天皇は天照大神(八咫の鏡)を人間と同じ床で祀ることは畏れ多いと考え、
皇女の豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託し倭の笠縫邑(かさぬいむら)に神殿を立て祀りました。
その後豊鋤入姫命が高齢になったので、第11代垂仁天皇(スイニン)の代に垂仁天皇の皇女の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に受け継がれた。
そしてこの時から天照大神が鎮座するに相応しい地を求めて、倭姫命の巡幸が始まる。
大和の三輪山を出発し三重県、滋賀県、岐阜県の各地で宮を立て八咫鏡(天照大神)を祀られたが、最後に伊勢に来た時に天照大神のお告げがあり、五十鈴川の川上に宮をたてた。(巡幸した各地の宮は伊勢神宮の「元宮」として現在も聖蹟として地元で祀られている。)
大和を出発し十数か所の御鎮座地を経て、34年の歳月を費やし天照大神(八咫の鏡)が辿りついた地、それが伊勢であり、伊勢神宮の創始である。たが、
この時から「八咫の鏡」と「草薙の剣」はこの伊勢神宮で祀られていたが、「草薙の剣」は前述したように熱田神宮の御神体として奉斎されている。
「 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 」
三種の神器のうち草薙剣と八咫の鏡はいろいろな経緯をたどり現在に至っているが、八尺瓊勾玉については特段の記録がない。おそらく崇神天皇の時代から皇居に奉安されているものと思われる。
三種の神器は天皇の傍らにあり皇位を象徴するものであるが、現在皇居にあるものはそれらの形代(写しである。)
従って源平合戦の最後の戦いである壇ノ浦の戦いでも、安徳天皇の傍らにあった三種の神器は関門海峡に沈んだが、是も形代である。
記憶に新しい所では、今上天皇が即位した5年前、皇居松の間で行われた「剣璽等承継の儀」の折、侍従が捧げ持ち会場に入場したのが「草薙の剣」と「璽」(勾玉)の形代である。同時に「国璽」「御璽」(国名印、天皇印)も継承された。
また「八咫の鏡」の形代は宮中3殿の賢所に鎮まれており、天皇陛下が奉斎されている。